-162年- 壬寅(じんいん)
【漢】 延熹(えんき)5年 ※桓帝(劉志〈りゅうし〉)
月別および季節別の主な出来事
【01月】
桓帝が、太官右監丞の官を廃止する。
『後漢書』(桓帝紀)
【01月】
壬午(じんご)の日(29日)
洛陽の南宮にある丙署で火災が起こる。
『後漢書』(桓帝紀)
【03月】
沈氐羌(しんていきょう)が、張掖(ちょうえき)・酒泉の両郡に侵攻する。
『後漢書』(桓帝紀)
【03月】
壬午の日(30日)
済北王の劉次(りゅうじ)が薨去(こうきょ)する。
『後漢書』(桓帝紀)
【04月】
長沙郡の賊が蜂起し、桂陽・蒼梧の両郡に侵攻する。
『後漢書』(桓帝紀)
【04月】
暴れ馬と逃げ出した象が、宮殿に突入するという事件が起こる。
『後漢書』(桓帝紀)
【04月】
乙丑(いっちゅう)の日(5月13日?)
恭陵(安帝の陵)の東闕(とうけつ)で火災が起こる。
『後漢書』(桓帝紀)
【04月】
戊辰(ぼしん)の日(5月16日?)
虎賁(こほん)の掖門(えきもん)でも火災が起こる。
『後漢書』(桓帝紀)
【04月】
己巳(きし)の日(5月17日?)
太学の西門が自然に壊れる。
『後漢書』(桓帝紀)
【05月】
康陵(殤帝の陵)の園寝で火災が起こる。
『後漢書』(桓帝紀)
【05月】
長沙・零陵の両郡で賊が蜂起し、桂陽・蒼梧・南海・交趾(こうし)の4郡を攻める。御史中丞の盛脩(せいしゅう)が遣わされ、州郡の兵をひきいて討伐にあたったものの、平定することができなかった。
『後漢書』(桓帝紀)
★李賢注(りけんちゅう)によると「『東観漢記』に『このとき賊は蒼梧郡を攻め落とし、銅虎符を奪った。蒼梧太守の甘定(かんてい)と交趾刺史(こうししし)の侯輔(こうほ)は、それぞれ逃げて城を出た』とある」という。
★『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡本秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)の補注は、『後漢書』(天文志)の記事を引き、「銅虎符を奪われたのは南郡太守の李粛(りしゅく)であること」を指摘している。
【05月】
乙亥(いつがい)の日(23日)
洛陽で地震が起こる。桓帝は公卿に詔を下し、それぞれ封事を奉らせた。
『後漢書』(桓帝紀)
【06月】
甲申(こうしん)の日(3日)
洛陽の中蔵府にある承禄署で火災が起こる。
『後漢書』(桓帝紀)
【07月】
己未(きび)の日(8日)
洛陽の南宮にある承善闥(しょうぜんたつ)で火災が起こる。
『後漢書』(桓帝紀)
【07月】
鳥吾羌が、漢陽・隴西(ろうせい)・金城の3郡に侵攻したものの、諸郡の兵がこれを討ち破る。
『後漢書』(桓帝紀)
【08月】
庚子(こうし)の日(20日)
桓帝が詔を下し、「虎賁や羽林の兵士で官舎に住んでいる者のうち、任務に耐えない者の俸禄を半減し、冬服代を支給しないようにせよ。公卿以下百官については冬服代の半額を支給せよ」とする。
『後漢書』(桓帝紀)
【08月】
艾県の賊が長沙の郡県を焼いたうえ、益陽県に侵攻して県令を殺害する。
『後漢書』(桓帝紀)
★李賢注によると「『東観漢記』に『このとき賊は刺史の車に乗り、臨湘県を拠点とし、太守の官舎に寄宿した。1万人を超える賊が益陽県に駐屯し、長吏を殺害した』とある」という。
【08月】
零陵蛮も反乱を起こし、長沙郡に侵攻する。
『後漢書』(桓帝紀)
【09月】
己卯(きぼう)の日(29日)
桓帝が、琅邪都尉(ろうやとい)の官を廃止する。
『後漢書』(桓帝紀)
【10月】
武陵蛮が反乱を起こし、江陵郡に侵攻する。
『後漢書』(桓帝紀)
【10月】
南郡太守の李粛が、敵前逃亡の罪により公開処刑となる。
『後漢書』(桓帝紀)
★『全譯後漢書 第2冊』の補注によると「李粛は武陵蛮の襲撃を受けると、制止する主簿の胡爽(こそう)を斬殺し、城を捨てて逃亡。桓帝の怒りを買って処刑された」という。
【10月】
辛丑(しんちゅう)の日(22日)
桓帝が、太常の馮緄(ふうこん)を車騎将軍に任じ、荊州一帯の賊を討伐するよう命ずる。
『後漢書』(桓帝紀)
【10月】
桓帝が、公卿以下百官の俸禄を借り上げ、王侯からも租税を借りて軍糧を補う。濯龍宮(たくりょうきゅう)の中蔵から銭を出し、これらの返済に充てた。
『後漢書』(桓帝紀)
【11月】
車騎将軍の馮緄が、武陵で反乱を起こした賊を大破する。
『後漢書』(桓帝紀)
【11月】
京兆虎牙都尉の宗謙(そうけん)が、横領の罪により投獄され獄死する。
『後漢書』(桓帝紀)
【11月】
滇那羌(てんなきょう)が、武威・張掖・酒泉の3郡に侵攻する。
『後漢書』(桓帝紀)
【?月】
皇甫規(こうほき)が、宦官(かんがん)らの讒言(ざんげん)により投獄される。後に釈放された皇甫規は引退した。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉・訳 筑摩書房)の年表
⇒?月
皇甫規は3月に沈氐羌を討ち破ったものの、宦官の讒言によって投獄された。皇甫規は釈放されたあと引退した。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表
【11月】
桓帝が、太尉の劉矩(りゅうく)を罷免し、太常の楊秉(ようへい)を太尉に任ずる。
『後漢書』(桓帝紀)
特記事項
「この年(162年)に生まれたとされる人物」
胡昭(こしょう)
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