215年(漢の建安20年)の主な出来事

-215年- 乙未(いつび)
【漢】 建安(けんあん)20年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】
献帝が、曹操(そうそう)の真ん中の娘を皇后(こうごう)に立てる。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)

⇒01月
甲子(こうし)の日(18日)
献帝が、貴人(きじん)の曹氏(そうし)を皇后に立てる。このとき献帝は天下の男子に爵1級、孝悌(こうてい)と力田(りきでん)に爵2級を下賜した。また、諸王や諸侯、公卿(こうけい)以下にも、それぞれ差をつけて穀物を下賜した。
『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉)

孝悌については先の109年1月(このサイトでは収録外)の記事に『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡本秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)の補注があった。それによると「孝悌は郷官(きょうかん)のひとつ。孝は親、悌は兄に対しての徳目をいい、これに優れた者が任命され社会の模範として顕彰された。前漢(ぜんかん)の元帝(げんてい)までは孝と悌を区別している例が見えるが、後漢(ごかん)では両者を併せて郷官名とするようである。詔(みことのり)による恩賜や租税免除などの恩恵があった」という。

力田については先の181年7月の記事に『全譯後漢書 第2冊』の補注があった。それによると「力田は郷官のひとつ。よく農業に励む者が任命され、社会の模範として顕彰された。後漢では、詔による恩賜や租税免除などの恩恵があった」という。

同じく先の109年1月(このサイトでは収録外)の『全譯後漢書 第2冊』の補注によると「ここでいう爵とは民爵のこと。漢代における『二十等爵制』では、一般庶民に与えられる爵位は第8級の公乗(こうじょう)以下に限られ、第9級の五大夫(ごたいふ)以上の爵位は秩600石(せき)以上の官になって初めて与えられるものであった。それ以下の吏には、庶民と同じ第8級の公乗以下の爵位が与えられ、これが士と庶を区別する線であった」という。

【01月】
献帝が、雲中(うんちゅう)・定襄(ていじょう)・五原(ごげん)・朔方(さくほう)の4郡を廃止。これらにひとつずつ県を設置して住民を管轄し、4県を併せ新興郡(しんこうぐん)を設置する。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【03月】
曹操が張魯(ちょうろ)討伐のため西へ向かう。陳倉(ちんそう)に到着した曹操は、武都(ぶと)から氐(てい)に入ろうとしたが、氐人が道をふさいだ。このため先に張郃(ちょうこう)と朱霊(しゅれい)らを遣わして攻撃させ、これを討ち破った。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【04月】
曹操が、陳倉から散関(さんかん)を経て河池(かち)に到着する。しかし、氐王(ていおう)の竇茂(とうぼう)は1万余の軍勢を擁しており、険阻を頼んで服従しなかった。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【05月】
曹操が氐王の竇茂を攻め破る。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】「韓遂(かんすい)の死」
西平(せいへい)や金城(きんじょう)を占拠していた麴演(きくえん)と蔣石(しょうせき)らが協力し、韓遂の首を斬り曹操のもとに届ける。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】
孫権(そんけん)が劉備(りゅうび)に荊州(けいしゅう)の返還を要求する。劉備が拒否すると、孫権は呂蒙(りょもう)と魯粛(ろしゅく)らの軍を荊州に差し向けた。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【07月】
曹操が陽平(ようへい)に到着する。これに対し張魯は、弟の張衛(ちょうえい)と将軍(しょうぐん)の楊昂(ようこう)らを陽平関に立てこもらせた。曹操は、山を横切る形で10余里にわたって築かれた城を攻めたものの陥せず、軍を引き揚げた。張衛らは曹操の大軍が退くのを見て守りを解いた。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】
曹操が、密かに解ヒョウ(かいひょう。忄+剽)と高祚(こうそ)らに険しい山を登らせ夜襲をかける。ふたりは張魯配下の楊任(ようじん)を斬り、さらに進撃して張衛を攻めた。張衛は夜にまぎれて逃走し、張魯は総崩れとなって巴中(はちゅう)に逃げた。

曹操の軍勢は南鄭(なんてい)に入城し、張魯の庫に納められていた珍宝をことごとく奪い取った。巴(は)と漢(かん)はすべて降伏した。

漢寧郡(かんねいぐん)は再び漢中郡(かんちゅうぐん)となり、漢中郡から安陽(あんよう)・西城(せいじょう)の両県を分割し、西城郡として太守(たいしゅ)を配置したうえ、錫(せき)・上庸(じょうよう)の両県を分割し、上庸郡として都尉(とい)を配置した。
『三国志』(魏書・武帝紀)

『後漢書』(郡国志〈ぐんこくし〉)の劉昭注(りゅうしょうちゅう)によると「袁山松(えんさんしょう)の『後漢書』に『建安20(215)年に、再び漢寧郡および漢中の安陽・西城郡を設置したうえ、錫・上庸(の両県を)分割して上庸郡とし都尉を配置した』とある」という。

上の袁山松の『後漢書』のくだりについて、『三国志』(魏書・武帝紀)と同じ内容を述べていると思われるが、郡県の記述がややこしくてよくわからなかった。特に漢寧郡と漢中郡の扱いがわからず……。

⇒07月
曹操が漢中を攻略し張魯が降伏する。
『後漢書』(献帝紀)

【?月】「荊州の分割統治」
曹操が漢中に侵出してきたため劉備が孫権に和を乞う。これを受け、孫権と劉備は荊州を二分して支配することで合意した。
『正史 三国志8』の年表

⇒?月
孫権配下の諸葛瑾(しょかつきん)と劉備配下の諸葛亮(しょかつりょう)が会談し、孫権と劉備の間で荊州を分割統治する協定が成立する。
『三国志全人名事典』(『中国の思想』刊行委員会編著 徳間書店)の関連略年表

【08月】
孫権が魏の合肥(ごうひ)を包囲する。曹操は張遼(ちょうりょう)と李典(りてん)に反撃を命じ、これを討ち破った。
『三国志』(魏書・武帝紀)

⇒?月
孫権が魏の合肥に遠征し軍を引き揚げることになったとき、逍遥津(しょうようしん。渡し場)の北側で曹操配下の張遼の急襲を受け、危うく孫権が討たれそうになった。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・賀斉伝〈がせいでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『江表伝(こうひょうでん)』

【09月】
巴の七豪族のうち、蛮王(ばんおう)の朴胡(ふこ)と賨邑侯(そうゆうこう)の杜濩(とこ)が、巴の蛮人と賨の住民をこぞって曹操に帰順する。そこで曹操は巴郡を分割し、朴胡を巴東太守(はとうのたいしゅ)に、杜濩を巴西太守(はせいのたいしゅ)に、それぞれ任じたうえ、ふたりを列侯(れっこう)に封じた。
『三国志』(魏書・武帝紀)

賨についてはフォントがつぶれて見づらいが、「宗+貝」という字になっている。

【09月】
献帝が曹操に、独断で諸侯・太守・国相(こくしょう)を任命する権限を与える。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【10月】
曹操の意向により名号侯(めいごうこう。実封のない名称のみの侯)から五大夫に至る爵位の制度が定められ、旧来の列侯・関内侯(かんだいこう)と合わせ6等級とし、それによって功績を賞することになる。
『三国志』(魏書・武帝紀)

ここで「『魏書』にいう」として、「このとき設置された名号侯の爵位は第18級。関中侯(かんちゅうこう)の爵位は第17級で、すべて金印紫綬(きんいんしじゅ)とした。また関内侯と関外侯(かんがいこう)は第16級で銅印亀紐墨綬(どういんきちゅうぼくじゅ。亀紐は亀の形をした印のつまみ)。五大夫は第15級で銅印環紐(どういんかんちゅう)、同じく墨綬とされた。これらはみな租税を食まず、旧来の列侯・関内侯と合わせて6等級になった」とある。

さらに裴松之が、「今(晋代〈しんだい〉)の虚封(領地がなく爵位だけを与えること)は、つまりこれから始まったのである」との考えを述べている。

このあたりの爵位についてのくだり。漢代の民爵と同様、さらに詳しく調べてみないと理解できない感じ。漢代の爵位は秦代(しんだい)のものをそのまま受け継いだわけではないともいうので、なかなかややこしい。

【11月】「張魯の降伏と曹操の漢中平定」
巴中に逃げていた張魯が、残余の軍勢を引き連れ曹操に降る。曹操は張魯と5人の息子をみな列侯に取り立てた。
『三国志』(魏書・武帝紀)

『後漢書』(献帝紀)ではこの年(215年)の7月の記事として、曹操の漢中攻略と張魯の降伏をまとめて記している。

【11月】
先に劉璋(りゅうしょう)から益州(えきしゅう)を奪った劉備が巴中も占領する。曹操は張郃を遣わして劉備を攻めさせた。
『三国志』(魏書・武帝紀)

⇒?月
劉備配下の張飛(ちょうひ)が、巴中で曹操配下の張郃に大勝する。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表

【12月】
曹操が南鄭から帰途に就く。この際、夏侯淵(かこうえん)を漢中に残した。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】
この年、孫権配下の呂岱(りょたい)が孫茂(そんぼう)ら10人の部将を指揮し、軍を進めて長沙(ちょうさ)・零陵(れいりょう)・桂陽(けいよう)の3郡を奪取した。

安成(あんせい)・攸(ゆう)・永安(えいあん)・茶陵(やりょう)の4県の役人たちは共謀して陰山城(いんざんじょう)に立てこもり、人数を集めて孫権の支配下に入ることを拒んだ。呂岱はこれを攻囲し、またたく間に降伏させた。こうして3郡は孫権の支配下に入り平穏になった。孫権は呂岱をそのまま長沙に留め、周辺の鎮撫にあたらせた。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呂岱伝)

【?月】
この年、皇甫謐(こうほひつ)が生まれた(~282年)。
『正史 三国志8』の年表

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正史年表 210年代
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今日も三国志日和 – 史実と創作からみる三国志の世界 –

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