潘勖(はんきょく) ※あざなは元茂(げんぼう)

【姓名】 潘勖(はんきょく) 【あざな】 元茂(げんぼう)

【原籍】 河南郡(かなんぐん)?

【生没】 ?~215年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・衛覬伝(えいきでん)』に付された「潘勖伝」あり。

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古例に精通していた名文家

父母ともに不詳。息子の潘満(はんまん)は跡継ぎ。

潘勖は初めの名を芝(し。潘芝)と言ったものの、諱(いみな)を避けて(対象者は不明)勖と改名した。

献帝(けんてい。在位189~220年)の時代に尚書郎(しょうしょろう)となり、やがて尚書右丞(しょうしょゆうじょう)に昇進する。

詔(みことのり)により、以前に潘勖が二千石(せき)の曹(そう。属官)として明敏な才能を示し、博識で古例にも習熟していたことから、同時に本来の職務を担当するよう命じ、たびたび特別な賜与が与えられたという。

具体的にどのような官職を兼ねていたのかはよくわからず。

213年、曹操(そうそう)が魏公(ぎこう)に昇り、九錫(きゅうせき)を加えられることになった際、その任命書は潘勖が起草した。

215年、潘勖は東海国相(とうかいこくしょう)に昇進したが、発令の前に引き留められ、改めて尚書左丞(しょうしょさじょう)に任ぜられる。

だが、この年のうちに病死。50余歳だったという。息子の潘満が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

登場箇所が少ないためコメントしにくいです。

上で挙げた記事は、ほぼ本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く摯虞(しぐ)の『文章志(ぶんしょうし)』によるもの。

裴松之注では名の表記が勗となっている箇所もありましたが――。

『角川 新字源 改訂新版』(小川環樹〈おがわ・たまき〉、西田太一郎〈にしだ・たいちろう〉、赤塚忠〈あかつか・きよし〉、阿辻哲次〈あつじ・てつじ〉、釜谷武志〈かまたに・たけし〉、木津祐子〈きづ・ゆうこ〉編 KADOKAWA)によると、勗は勖の俗字だということでした。

また出身地についても、本伝では「河南の潘勖」とありましたが、裴松之注では陳留郡(ちんりゅうぐん)中牟県(ちゅうぼうけん)の人だと言っており、イマイチはっきりしませんでした。

このほかの関連記事としては、『三国志』(魏書・荀彧伝〈じゅんいくでん〉)の裴松之注に、潘勗(潘勖)が荀彧の碑文を著したというものもありました。

曹操が魏公に封ぜられ、九錫を加えられた際の任命書は、すべて『三国志』(魏書・武帝紀〈ぶていぎ〉)に載せられていましたが、こういう重要な文章の起草を任されたのは、やはり潘勖が古例に精通していたからでしょうね。

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