馬超(ばちょう) ※あざなは孟起(もうき)、蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の斄郷威侯(りきょういこう)

【姓名】 馬超(ばちょう) 【あざな】 孟起(もうき)

【原籍】 扶風郡(ふふうぐん)茂陵県(ぼうりょうけん)

【生没】 176~222年(47歳)

【吉川】 第149話で初登場。
【演義】 第010回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・馬超伝』あり。

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西方に勇名を轟(とどろ)かせ、流寓(りゅうぐう)の末に蜀へ落ち着く、斄郷威侯(りきょういこう)

父は馬騰(ばとう)だが、母は不詳。馬休(ばきゅう)と馬鉄(ばてつ)は弟。馬岱(ばたい)は従弟。馬秋(ばしゅう)と馬承(ばしょう)という息子がおり、跡を継いだのは馬承。ほかに劉理(りゅうり)に嫁いだ娘もいた。

202年、馬超は馬騰の命を受け、曹操(そうそう)配下の司隷校尉(しれいこうい)の鍾繇(しょうよう)に付き従い、平陽(へいよう)で郭援(かくえん)や高幹(こうかん)の討伐にあたる。

やがて馬騰と韓遂(かんすい)が不仲になると、208年に馬騰は衛尉(えいい)として都(許〈きょ〉)へ召されることになり、馬超が偏将軍(へんしょうぐん)・都亭侯(とていこう)として父の軍勢を引き継いだ。

211年、馬超は韓遂をはじめ、楊秋(ようしゅう)・李堪(りかん)・成宜(せいぎ)らと手を結び、潼関(とうかん)まで進出して曹操軍と対峙(たいじ)する。

このとき曹操と陣前で会見する機会があり、馬超は不意を突いて曹操を捕らえようと考えたものの、護衛の許褚(きょちょ)がいたためにうまくいかなかった。

そのうち馬超は曹操配下の賈詡(かく)の計にかかり、韓遂と猜疑(さいぎ)し合うようになる。結局は曹操軍と戦って大敗を喫し、蛮族の住む地へ逃走した。

翌212年、すでに入朝していた馬騰以下、(鄴〈ぎょう〉にいた)馬休や馬鉄ら一族も、曹操の命により皆殺しにされる。

曹操が西方から帰還した後、馬超は蛮族をひきいて隴上(ろうじょう。隴山一帯)の郡県を攻め、涼州刺史(りょうしゅうしし)の韋康(いこう)を殺害して冀城(きじょう)に拠った。

さらに自ら征西将軍(せいせいしょうぐん)を称して幷州牧(へいしゅうぼく)を兼ね、涼州の軍事を一手に握った。

だが、韋康に仕えていた楊阜(ようふ)・姜叙(きょうじょ)・梁寛(りょうかん)・趙衢(ちょうく)らは共謀し、馬超の打倒に立ち上がる。

翌213年、楊阜と姜叙が鹵城(ろじょう)で挙兵したため、馬超は冀城から出撃して鹵城を攻めたが落とせず。

その間に梁寛と趙衢が冀城の城門を閉ざし、進退窮まった馬超は漢中(かんちゅう)の張魯(ちょうろ)のもとへ逃れた。

ところが張魯はともに事を計るに足らなかったので、(214年に)劉備(りゅうび)が成都(せいと)の劉璋(りゅうしょう)を包囲したと聞くと、密書を送って帰順を願い出る。

こうして劉備から迎えの使者が来ると、馬超は軍勢をひきいて成都へ向かい、彼の到着を聞いた劉璋はほどなく劉備に降伏した。馬超は平西将軍(へいせいしょうぐん)・都亭侯となり、臨沮(りんしょ)を治めることになった。

翌215年、曹操が張魯を降すと、張魯のもとに留めたままになっていた息子の馬秋が殺害される。

219年、劉備が漢中王になると、馬超は左将軍(さしょうぐん)・仮節(かせつ)に任ぜられた。

221年、劉備が帝位に即くと、馬超は驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)に昇進して涼州牧を兼ね、斄郷侯に爵位が進む。

翌222年、馬超は47歳で死去。威侯と諡(おくりな)され、息子の馬承が跡を継いだ。

馬超をはじめ、関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)・龐統(ほうとう)・黄忠(こうちゅう)に諡号(しごう)が贈られたのは、ずっと後の、蜀の景耀(けいよう)3(260)年のこと。

管理人「かぶらがわ」より

潼関および渭水(いすい)一帯の戦いにおいて、大いに曹操を悩ませたのが馬超の武勇。

そして曹操と対立したことにより、父や弟ら多くの一族を失ったものの、最終的には劉備に仕えて厚遇されました。

ですが意外にも、蜀へ来た後の馬超の活躍はパッとしないというか、あまり語られていないのですよね。

『三国志演義』や吉川『三国志』で描かれたような颯爽(さっそう)としたイメージを、正史『三国志』からそれほど感じないのはなぜでしょう?

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