【姓名】 呉壱(ごいつ) 【あざな】 子遠(しえん)
【原籍】 陳留郡(ちんりゅうぐん)
【生没】 ?~237年(?歳)
【吉川】 第196話で初登場。
【演義】 第062回で初登場。
【正史】 登場人物。
劉備(りゅうび)の姻戚となって車騎将軍(しゃきしょうぐん)まで昇る
父母ともに不詳。妹は劉備の皇后となった。呉班(ごはん)は族弟(いとこ。一族の同世代の年少者)。
彼の本名は懿(い。呉懿)だが、(正史の)『三国志』では司馬懿(しばい)の諱(いみな)を避け、呉壱と表記されている。
呉壱は幼いころに父を亡くしたが、父は劉焉(りゅうえん)と旧知の間柄だった。
188年、その劉焉が益州牧(えきしゅうぼく)になると、呉壱は一家を挙げて付き従い、蜀(しょく)へ入る。
後に劉璋(りゅうしょう)の時代(194~214年)に呉壱は中郎将(ちゅうろうしょう)となり、213年、涪県(ふうけん)まで進軍してきた劉備に降伏。
翌214年、劉備が成都(せいと)で劉璋を降すと、呉壱は護軍(ごぐん)・討逆将軍(とうぎゃくしょうぐん)に任ぜられた。
221年、劉備が帝位に即くと、呉壱は関中都督(かんちゅうととく)となる。
230年、呉壱は魏延(ぎえん)とともに南安(なんあん)へ進攻し、魏将(ぎしょう)の費瑶(ひよう)を撃破する。この功によって亭侯(ていこう)から高陽郷侯(こうようきょうこう)に爵位が進み、左将軍(さしょうぐん)に昇進した。
234年、丞相(じょうしょう)の諸葛亮(しょかつりょう)が陣没すると、呉壱は督漢中(とくかんちゅう)・車騎将軍・仮節(かせつ)として雍州刺史(ようしゅうしし)兼ね、済陽侯(せいようこう)に爵位が進む。そして237年に死去した。
管理人「かぶらがわ」より
上で挙げた記事は『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・楊戯伝〈ようぎでん〉)の『季漢輔臣賛(きかんほしんさん)』の陳寿(ちんじゅ)の注記および『三国志』(蜀書・穆皇后伝〈ぼくこうごうでん〉)によるものです。
呉壱の好待遇には妹の存在も大きく関わっていたのでしょうけど、そのことだけで漢中を任せられるはずがありません。ほぼ想像になるものの、将軍としての手腕も優れていたのだと思います。このあたりの関連記事が少ないのは残念でした。
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