孫資(そんし)

【この記事をシェアする】

【姓名】 孫資(そんし) 【あざな】 彦龍(げんりょう)

【原籍】 太原郡(たいげんぐん)中都県(ちゅうとけん)

【生没】 ?~251年(?歳)

【吉川】 第286話で初登場。
【演義】 第096回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・劉放伝(りゅうほうでん)』に付された「孫資伝」あり。

劉放とともに魏滅亡の一因を作る。中都貞侯(ちゅうとのていこう)

父母ともに不詳。兄がいたことがうかがえるものの名は不詳。息子の孫宏(そんこう)は跡継ぎ。

孫資は3歳で両親を亡くし、兄と兄嫁に育てられた。幼いころから優れた才知を見せていたという。のち太学(たいがく)で学び、広く経書の注釈を読んだが、同郡の王允(おういん)は一見して彼を評価した。

196年、曹操(そうそう)が「司空(しくう)」になると、孫資を招聘(しょうへい)。しかし、このころ兄が郷里の者に殺害されたので、孫資は自ら剣を執って復讐(ふくしゅう)を果たし、家族を連れ河東(かとう)へ避難。このため招聘に応ずることができなかった。

次いで太原郡から任官の話が来たものの、いったんは病気を理由に辞退する。それでも友人の賈逵(かき)の言葉に動かされて応ずることにし、太原郡の「功曹(こうそう)」となった。

その後、河東郡の「上計吏(じょうけいり)」として許(きょ)へ赴いた際、尚書令(しょうしょれい)の荀イク(じゅんいく)から高く評価される。

こうして荀イクの上奏により「尚書郎(しょうしょろう)」に任ぜられたが、家族の難儀を理由に辞退し、河東へ帰ることを許されたという。のち孫資は「県令(けんれい)」を経て「参丞相軍事(さんじょうしょうぐんじ)」となった。

曹操が「丞相」を務めていた期間は208~220年。

213年、魏が建国された後、涿郡(たくぐん)の劉放とともに「秘書郎(ひしょろう)」に任ぜられる。

220年、曹丕(そうひ)が帝位に即くと、孫資は「尚書右丞(しょうしょゆうじょう)」に、劉放は「尚書左丞(しょうしょさじょう)」に、それぞれ転ずる。

翌221年、「秘書省」が改められて「中書省(ちゅうしょしょう)」となり、孫資が「中書令(ちゅうしょれい)」に、劉放が「中書監(ちゅうしょかん)」に、それぞれ任ぜられた。ふたりには「給事中(きゅうじちゅう)」の官位も加えられた。

孫資は「関中侯(かんちゅうこう)」に、劉放は「関内侯(かんだいこう)」に、それぞれ封ぜられ、政治の機密を掌握することとなる。

翌222年、孫資は「関内侯」に、劉放は「魏寿亭侯(ぎじゅていこう)」に、それぞれ爵位が進む。

226年、曹叡(そうえい)が帝位を継ぐと、ふたりとも寵愛と信任を得て「散騎常侍(さんきじょうじ)」の官位を加えられる。さらに孫資は「楽陽亭侯(らくようていこう)」に、劉放は「西郷侯(せいきょうこう)」に、それぞれ爵位が進む。

232年、孫権(そんけん)が将軍(しょうぐん)の周賀(しゅうが)らを遣わし、海路で遼東(りょうとう)に向かわせる。これは遼東太守(りょうとうたいしゅ)の公孫淵(こうそんえん)を味方に引き入れるための動きだった。

曹叡は迎撃したいと考えたが、朝議では多くの者が無理だと述べる。だが孫資だけは賛成し、結果的に殄夷将軍(てんいしょうぐん)の田豫(でんよ)が周賀を討ち取った。そのため孫資は「左郷侯(さきょうこう)」に爵位が進む。

翌233年、劉放とともに「侍中(じちゅう)・光禄大夫(こうろくたいふ)」に昇進。

238年9月、太尉(たいい)の司馬懿(しばい)によって遼東が平定されると、この計画に加わった功により、孫資は「中都侯」に、劉放は「方城侯(ほうじょうこう)」に、それぞれ爵位が進む。

孫資は太原郡中都県、劉放は涿郡方城県の出身である。

同年12月、曹叡が病に伏すと、孫資と劉放は曹爽(そうそう)を称賛し、彼と司馬懿に後事を託すよう勧めた。

翌239年、曹芳(そうほう)が帝位を継ぐと、孫資と劉放は重要な決定に参画していたことからそれぞれ300戸を加増される。以前と合わせ孫資の封邑(ほうゆう)は1千戸となり、劉放は1100戸となった。

翌240年、改めて孫資は「右光禄大夫(ゆうこうろくたいふ)」に、劉放は「左光禄大夫(さこうろくたいふ)」に、それぞれ任ぜられる。ふたりには金印と紫綬(しじゅ)が授けられたうえ「儀同三司(ぎどうさんし。三公待遇)」とされた。

245年、孫資は「衛将軍(えいしょうぐん)」に、劉放は「驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)」に、それぞれ転じたものの、引き続き「中書令(孫資)」と「中書監(劉放)」を兼ねた。

248年、孫資と劉放は老年のため退官したが、「列侯(れっこう)」として毎月1日と15日に参内することが許され、「特進(とくしん。三公に次ぐ待遇)」を授けられた。

翌249年、太傅(たいふ)の司馬懿のクーデターによって曹爽らが処刑されると、孫資は「侍中・中書令」として復帰。

翌250年、劉放が死去。孫資は再び退官したが、朝廷の使者が私邸まで出向いて「驃騎将軍」に任じ、「侍中」と「特進」の待遇はもと通りとされた。

翌251年、孫資が死去すると「貞侯」と諡(おくりな)され、息子の孫宏が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

孫資の事績は劉放とセットになっているものが多く、ここでは両者の記事を無理に分けませんでした。やたら劉放が登場するのもそのためです。この自己コメント部分を含め、かなり劉放の記事とカブってもいます。

なお、本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引かれていた『孫資別伝』については、彼の子孫が著したものだというので、そこからの引用はあまり参考にしていません。実際、孫資の持ち上げみたいな記事ばかりでした。

初めの「3歳で両親を亡くし…」から「荀イクの上奏によって『尚書郎』に任ぜられたが…」の辺りだけ使いました。

しかし、いくら寵愛と信任を得ていたとしても、孫資や劉放が「驃騎将軍」というのはどうなのでしょうね?

また、初め曹叡は、燕王(えんおう)の曹宇(そうう)を「大将軍(だいしょうぐん)」に据えたうえ、領軍将軍(りょうぐんしょうぐん)の夏侯献(かこうけん)と武衛将軍(ぶえいしょうぐん)の曹爽、屯騎校尉(とんきこうい)の曹肇(そうちょう)、驍騎校尉(ぎょうきこうい)の秦朗(しんろう)に政治を補佐させようとしていたという。

ところが、彼が信任する孫資や劉放の働きかけもあり、最終的には曹爽と司馬懿に後事を託す形になりました。このとき曹宇らが仕切ることで決着したとしても、司馬懿の台頭は抑えられなかったのでしょうけど、孫資と劉放は魏が滅亡へ向かう一因を作ったとは言えそうです。

スポンサーリンク

おすすめ記事(広告を含む)

【この記事をシェアする】

【更新情報をフォローする】