馬均(ばきん) ※あざなは徳衡(とくこう)

【姓名】 馬均(ばきん) 【あざな】 徳衡(とくこう)

【原籍】 扶風郡(ふふうぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第105回で初登場。
【正史】 登場人物。

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空論を嫌った天才発明家

父母ともに不詳。馬鈞ともいう。

馬均は様々な工夫を凝らした数多くの発明品を生み出し、世に並ぶ者がなかった。

曹叡(そうえい)の時代(226~239年)に博士(はくし)や給事中(きゅうじちゅう)を務め、詔(みことのり)を受けて指南車(しなんしゃ)や水転百戯(すいてんひゃくぎ)を作った。

指南車は、常に南を指すように作られた人形を載せた車。

水転百戯は、軽業や奏楽をしてみせる機械仕掛けの人形を、水力を使って動くようにしたもの。

また、綾(あや)を織る機や翻車(ほんしゃ。足踏み式の水車)の改良といった民の暮らしに役立つことから、蜀(しょく)の諸葛亮(しょかつりょう)が考案した連弩(れんど。連発式の弩)を始め、発石車(はっせきしゃ。石を飛ばす兵器)といった兵器の改良にも取り組んだという。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・杜夔伝〈ときでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く傅玄(ふげん)の著した馬鈞についての序文によるもの。

馬均(馬鈞)は自分の工夫を語ることがなく、論争は苦手だったようです。

常侍(じょうじ)の高堂隆(こうどうりゅう)や驍騎将軍(ぎょうきしょうぐん)の秦朗(しんろう)から、「いにしえには指南車などなく、記録のほうが噓なのだ」と言われたとき――。

馬均は、空論を戦わせるより実際に試作して、事実をはっきりさせたほうがよいと述べ、曹叡の許しを得て見事に指南車を復元してみせたのでした。

機械により車輪の回転速度を上げた新型の発石車などというものは、相当な破壊力があったと思われます。

ただ傅玄が嘆いたように、馬均は工官を統括する地位には就けなかったのですよね。これだけの才能を生かしきれなかったのは惜しいことでした。

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