傅幹(ふかん)

【姓名】 傅幹(ふかん) 【あざな】 彦材(げんざい)

【原籍】 北地郡(ほくちぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第206話で初登場。
【演義】 第066回で初登場。
【正史】 登場人物。

劉備(りゅうび)主従は侮れない

父母ともに不詳。傅玄(ふげん)という息子がいた。

202年、袁紹(えんしょう)が死去すると、平陽(へいよう)で南匈奴(なんきょうど)の単于(ぜんう。王)の呼厨泉(こちゅうせん。呼廚泉)が反乱を起こした。これを受け曹操(そうそう)配下の司隷校尉(しれいこうい)の鍾繇(しょうよう)が諸軍をひきいて包囲する。

だが、鍾繇が陥落させないうちに、袁紹の息子の袁尚(えんしょう)から任命された河東太守(かとうたいしゅ)の郭援(かくえん)の軍勢が到着してしまう。このとき馬騰(ばとう)や韓遂(かんすい)は、ひそかに郭援らと結んでいた。

傅幹は馬騰に順逆の道を説き、鍾繇に協力し郭援を討つほうがよいと勧める。馬騰は彼の進言を容れ、息子の馬超(ばちょう)に1万余の精鋭を付けて出撃させ、郭援の斬殺と呼厨泉の降伏に貢献した。

212年、蜀(しょく)へ入っていた劉備が劉璋(りゅうしょう)攻めに乗り出すと、曹操配下の丞相掾(じょうしょうえん)の趙戩(ちょうせん)が言った。

「劉備は成功しないだろう。用兵が稚拙なため戦うたびに敗れ、いつも逃げ回っている。どうして他人の国など狙えようか? 蜀は小さくとも四方を囲まれた堅固な地であり、独立を保てる国だ。すぐに併呑されることはあるまい」

すると徴士(ちょうし。朝廷から招かれながらも仕えない、徳の高い人)の傅幹が応える。

「劉備は寛仁で度量があり、よく人に死力を尽くさせます。諸葛亮(しょかつりょう)は政治に熟達し、うまく状況の変化をつかみ、正道によりながらも権謀がある。しかも、この人が大臣となっているのです」

「関羽(かんう)や張飛(ちょうひ)は勇敢で義理に厚く、ふたりとも1万人を相手にできる。しかも、彼らが将軍(しょうぐん)となっているのです。3人は英傑で、この補佐に加えて劉備には知略もある。これで成功しないことがありましょうか?」

214年、劉備は劉璋を降し、成都(せいと)への入城を果たした。

またこの年、曹操が孫権(そんけん)討伐に出ようとした際、参軍(さんぐん)の傅幹は文と武を用いるべき時について説く。そしてしばらく軍を休息させ、その間に内政に注力するよう勧める。だが、曹操は聞き入れず出兵し、結局のところ戦果を上げることはできなかった。

のち傅幹は「丞相倉曹属(じょうしょうそうそうぞく)」に転じたというが、その後については記事がない。

曹操が「丞相」を務めていた期間は208~220年。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は、『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く司馬彪(しばひゅう)の『九州春秋(きゅうしゅうしゅんじゅう)』および『三国志』(魏書・鍾繇伝)の裴松之注に引く司馬彪の『戦略(せんりゃく)』や『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・先主伝〈せんしゅでん〉)の裴松之注に引く傅玄の『傅子(ふし)』によるものです。

傅幹の経歴はよくわかりませんでしたが、息子の傅玄は『晋書(しんじょ)』に伝が立てられているほど。「傅玄の父」として裴松之が拾い上げたという感じでしょうか?

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