205年(漢の建安10年)の主な出来事

-205年- 乙酉(いつゆう)
【漢】 建安(けんあん)10年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】「袁譚(えんたん)の死」
曹操(そうそう)が袁譚を攻め破り、袁譚と妻子を処刑する。これにより曹操が冀州(きしゅう)を平定した。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)

⇒?月
曹操が、南皮(なんぴ)に逃走したあと清河(せいか)を前に駐屯していた袁譚を討ち破り、郭図(かくと)らともども斬り殺す。
『三国志』(魏書・袁紹伝〈えんしょうでん〉)

⇒01月
曹操が、青州(せいしゅう)で袁譚を討ち破り、これを斬る。
『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉)

李賢注(りけんちゅう)によると「(王沈〈おうしん〉の)『魏書』に、『曹操は袁譚を攻めたものの、勝つことができなかったため、自らばちと太鼓を取(って陣頭指揮をす)ると、たちまちのうちにこれを討ち破ることができた』とある」という。

⇒01月
曹操が青州で袁譚を討ち破り、これを斬る。曹操は河北(かほく)を手中に収め、その地の名士である陳琳(ちんりん)や阮瑀(げんう)らを配下に加えた。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

冀州なんだか、青州なんだか――。ここはイマイチよくわからなかった。

【01月】
曹操が布告を出す。「個人的な復讐(ふくしゅう)を許さず、贅沢な葬儀を禁止し、すべて法によって統一する」というもの。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【01月】
袁熙(えんき)配下の焦触(しょうしょく)と張南(ちょうなん)らが背き、袁熙と袁尚(えんしょう)らを攻める。

袁氏のふたりは、3郡の烏丸族(うがんぞく。遼西〈りょうせい〉の蹋頓〈とうとつ〉、遼東〈りょうとう〉の蘇僕延〈そぼくえん〉、右北平〈ゆうほくへい〉の烏延〈うえん〉)のもとに逃げた。焦触らは県を挙げて曹操に降伏し、列侯(れっこう)に封ぜられた。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【04月】
黒山(こくざん)の賊である張燕(ちょうえん)が、軍勢10余万をひきいて曹操に降伏し、列侯に封ぜられる。
『三国志』(魏書・武帝紀)

⇒04月
黒山の賊である張燕が、その衆をひきいて漢(かん)に降る。
『後漢書』(献帝紀)

李賢注によると「『三国志』(魏書・張燕伝〈ちょうえんでん〉)に、『張燕はもとの姓を褚(ちょ)といい、常山国(じょうざんこく)真定県(しんていけん)の人である。黄巾賊(こうきんぞく)が蜂起すると、燕(褚燕)は少年らを集めて盗みを働き、1万余人を抱えるようになり、博陵(はくりょう)の人である張牛角(ちょうぎゅうかく)を主と仰いだ。牛角(張牛角)が死ぬと、燕(褚燕)は代わって主となったため、姓を張に改めた。張燕は剽悍(ひょうかん)で、軍中では張飛燕(ちょうひえん)と呼んだ。その衆は100万人に至り、黒山の賊と呼ばれた』とある」という。

【?月】
故安(こあん)の趙犢(ちょうとく)と霍奴(かくど)らが、幽州刺史(ゆうしゅうしし)と涿郡太守(たくぐんたいしゅ)を殺害する。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】
3郡の烏丸族が、獷平(こうへい)にいた鮮于輔(せんうほ)を攻める。
『三国志』(魏書・武帝紀)

ここで裴松之(はいしょうし)が「『続漢書(しょくかんじょ)』(郡国志〈ぐんこくし〉)による」として、「獷平は漁陽郡(ぎょようぐん)に属する県名である」と注釈している。

【?月】
曹操が趙犢らを斬り、潞河(ろが)を渡って獷平の鮮于輔を援ける。烏丸族は国境を越えて逃走した。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】
高幹(こうかん)が、幷州(へいしゅう)を挙げて反乱を起こし、曹操に背く。

そのむかし袁紹は、甥にあたる高幹に幷州牧(へいしゅうぼく)を任せていた。曹操が鄴(ぎょう)を陥したとき、高幹は降伏し、そのまま幷州刺史(へいしゅうしし)に任ぜられていた。

高幹は、曹操が烏丸征討に赴いたことを聞くや反乱を起こし、上党太守(じょうとうたいしゅ)を捕らえ、兵をこぞって壺関(こかん)の入り口を固めた。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】
曹操が、楽進(がくしん)と李典(りてん)に命じ、幷州で背いた高幹を攻めさせる。高幹は、壺関に引き返して城を守った。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【09月】
曹操が布令を出す。「阿諛迎合(あゆげいごう)して徒党を組むことは、過去の聖人が憎んだことである」として、「父と子が党派を異にし、互いに批判しあったり称誉しあうという冀州の風俗を恥と考える」というもの。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【09月】
献帝が、百官の中で甚だ貧しい者に対し、それぞれ差をつけて金帛(きんぱく)を下賜する。
『後漢書』(献帝紀)

【10月】
曹操が鄴に帰還する。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】
この年、孫権(そんけん)が賀斉(がせい)を遣わし、上饒県(じょうじょうけん)を攻め、上饒県を分割して建平県(けんぺいけん)を設置した。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)

【?月】
この年、荀悦(じゅんえつ)が『申鑒(しんかん)』5篇を献上した。
『正史 三国志8』の年表

特記事項

「この年(205年)に亡くなったとされる人物」
袁譚(えんたん)

「この年(205年)に生まれたとされる人物」
山濤(さんとう)曹叡(そうえい)?

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