【姓名】 董和(とうか) 【あざな】 幼宰(ようさい)
【原籍】 南郡(なんぐん)枝江県(しこうけん)
【生没】 ?~220年?(?歳)
【吉川】 第201話で初登場。
【演義】 第064回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・董和伝』あり。
諸葛亮(しょかつりょう)への直言を憚(はばか)らなかった清廉の士
父母ともに不詳。息子の董允(とういん)は跡継ぎ。
先祖が巴郡(はぐん)の江州(こうしゅう)の人だったこともあり、董和は後漢(ごかん)の末に一族をひきいて西方へ移住した。
そして益州牧(えきしゅうぼく)の劉璋(りゅうしょう)に仕え、牛鞞県長(ぎゅうひけんちょう)、江原県長(こうげんけんちょう)、成都県令(せいとけんれい)を歴任する。
蜀の地は豊かだったので、当時の風俗は奢侈(しゃし)に流れ、資産家は諸侯のような衣服を着て豪勢な食事をし、冠婚葬祭に家産を傾けていた。
だが董和は率先して倹約に努め、粗衣粗食を心がけ、身分を越えた行いを防ぐための制度を整える。彼の任地では風俗が改まり、違反する者もいなくなった。
それでも県境にいた豪族たちは厳しい規制を嫌い、彼らが劉璋を説き伏せた結果、董和は巴東属国都尉(はとうぞっこくとい)に転任する。
しかし、このとき数千の官民が連れ立って董和の留任を乞うたため、劉璋は2年間の留任を認めた。
その後、董和は任地から戻って益州太守(えきしゅうたいしゅ)に昇進したが、彼の清潔さと倹約ぶりは以前と変わらなかった。
また、彼は益州郡の異民族とも協力して仕事にあたり、誠意を尽くしたので、南方の人々からも信愛されたという。
214年、劉備(りゅうび)が成都で劉璋を降した後、董和は召されて掌軍中郎将(しょうぐんちゅうろうしょう)に任ぜられる。
こうして軍師将軍(ぐんししょうぐん)の諸葛亮とともに劉備の幕府の業務を担当したが、董和の進言は適切だったので、諸葛亮も親しく付き合った。
董和は内外の任務に携わること20余年に及んだが、(220年?に)死去したとき、彼の家にはわずかの財産もなかったという。息子の董允が跡を継いだ。
管理人「かぶらがわ」より
本伝には、221年に諸葛亮が丞相(じょうしょう)となったとき、配下に与えた命令というものが載せられており、その中で、不十分な点を繰り返し検討した董和の仕事ぶりをたたえています。
また、董和は諸葛亮に遠慮のない指摘をしたといい、そういった態度も併せて評価されていました。
さらに諸葛亮が気の合う4人として名を挙げたのは、崔州平(さいしゅうへい)・徐庶(じょしょ)・董和・胡済(こせい)。
彼らは時に欠点を指摘したり、様々な教示を与えたとあるので、諸葛亮はそうした意見を聴く耳を持っていたということになりますね。
董和の没年はイマイチはっきりしませんが、上で挙げた諸葛亮の命令の中で、董和と7年にわたって一緒に仕事をしたことが語られているので、220年かと推測されます。
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