李邈(りばく) ※あざなは漢南(かんなん)

【姓名】 李邈(りばく) 【あざな】 漢南(かんなん)

【原籍】 広漢郡(こうかんぐん)郪県(しけん)

【生没】 ?~234年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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旧恩ある諸葛亮(しょかつりょう)を誹謗(ひぼう)して刑死

父母ともに不詳。李朝(りちょう)と李邵(りしょう)は弟で、ほかにも夭折(ようせつ)した弟がいた。

李邈は劉璋(りゅうしょう)の時代(194~214年)に牛鞞県長(ぎゅうひけんちょう)となる。

214年、劉備(りゅうび)が成都(せいと)で劉璋を降して益州牧(えきしゅうぼく)を兼ねると、李邈は従事(じゅうじ)に任ぜられた。

ある年の元旦に酒をついで回る役を務めたとき、李邈は、劉備が劉璋から益州を奪ったことを面詰する。担当官吏の進言で処刑されそうになったが、諸葛亮の嘆願により刑死を免れた。

しばらくして李邈は犍為太守(けんいたいしゅ)・丞相参軍(じょうしょうさんぐん)・安漢将軍(あんかんしょうぐん)となる。

228年、諸葛亮が軍勢をひきいて祁山(きざん)へ向かうと、魏延(ぎえん)や呉壱(ごいつ。呉懿〈ごい〉)ら老練な将軍ではなく、馬謖(ばしょく)を先鋒に抜てきした。

ところが馬謖は、街亭(がいてい)で魏(ぎ)の張郃(ちょうこう)に撃破され、味方は散りぢりになる。これを受けて諸葛亮も進軍を諦め、漢中(かんちゅう)へ引き返した。

帰還後に諸葛亮が馬謖を処刑しようとすると、李邈は処刑に反対して不興を買い、成都へ戻された。

234年、諸葛亮が陣没すると劉禅(りゅうぜん)は喪服を着け、3日にわたって哀悼の意を表す。

このとき李邈が上表し、前漢(ぜんかん)の呂禄(りょろく。呂后〈りょこう〉の甥)や霍禹(かくう。霍光〈かくこう〉の息子)の例を挙げ、諸葛亮ほど強大な権力を持つ臣下を辺境の任務(北伐)に就かせるべきではなかったとして、彼の死は皆で喜ぶべきことだと述べた。

これを聞いた劉禅が腹を立て、李邈は投獄のうえ処刑されたという。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・楊戯伝〈ようぎでん〉)の『季漢輔臣賛(きかんほしんさん)』の陳寿(ちんじゅ)の注記およびその裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く常璩(じょうきょ)の『華陽国志(かようこくし)』によるもの。

劉備の益州取りの過程は、道義的に見ると褒められたものではありませんが、諸葛亮についても、李邈のような見方をしていた人が少なからずいたのですね。

諸葛亮ほど政治力に優れた人でも、皆に同じ方向を向かせるのは難しい。

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