劉封(りゅうほう)

【姓名】 劉封(りゅうほう) 【あざな】 ?

【原籍】 長沙郡(ちょうさぐん)?

【生没】 ?~220年(?歳)

【吉川】 第126話で初登場。
【演義】 第036回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・劉封伝』あり。

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蜀(しょく)の劉備(りゅうび)の養子

父は寇氏(こうし)だが、母は不詳。

養子ながら、劉禅(りゅうぜん)・劉永(りゅうえい)・劉理(りゅうり)は異母弟になる。息子の劉林(りゅうりん)は跡継ぎ。

劉封はもともと羅侯(らこう)の寇氏の息子で、長沙の劉氏(りゅうし)の甥だった。劉備が荊州(けいしゅう)にやってきたとき、まだ跡継ぎがいなかったため養子として迎えられたという。

211年に劉備が蜀へ入り、翌212年に葭萌(かぼう)から引き返して劉璋(りゅうしょう)を攻めた際、20余歳だった劉封も兵をひきい、214年には諸葛亮(しょかつりょう)や張飛(ちょうひ)らとともに長江(ちょうこう)をさかのぼり、行く先々で勝利を収めた。

同年に劉備が益州(えきしゅう)を平定すると、劉封は副軍中郎将(ふくぐんちゅうろうしょう)に任ぜられた。

219年、劉備の命を受けて上庸(じょうよう)で孟達(もうたつ)と合流し、曹操(そうそう)配下で上庸太守(じょうようたいしゅ)の申耽(しんたん)や弟の申儀(しんぎ)を降す。このときの功により副軍将軍(ふくぐんしょうぐん)に昇進した。

また同年には、関羽(かんう)が樊城(はんじょう)と襄陽(じょうよう)を包囲。そのころ劉封と孟達は、たびたび関羽から救援の要請を受けたものの、上庸一帯の郡が従属したばかりであることを理由に断り続けていた。

結局、関羽は敗れて荊州を失い、関平(かんぺい)らともども孫権(そんけん)に処刑されてしまう。このことから劉備は劉封らに恨みを抱くようになった。

さらに劉封と孟達も仲が悪く、劉封が孟達の軍楽隊を没収したこともあった。孟達は怒りと恨みの念から、220年7月に上表して劉備のもとを去り、魏(ぎ)の曹丕(そうひ)に降る。

曹丕に厚遇された孟達は劉封に手紙を送り、彼が養子であることを指摘し、自分と同じく魏に降るよう勧めた。しかし劉封は従わなかった。

その後、申儀が背くと、劉封は敗れて成都(せいと)へ戻った。すると劉備は、関羽を救援しなかった件や、孟達を追い込んで魏に奔らせた件を問責する。

諸葛亮は、劉封が剛勇だったため、(劉禅への)代替わり後のことを考えて、劉備に劉封を除くよう進言。こうして劉封は劉備から死を賜り、自殺して果てた。

なお本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)によると、劉封の息子の劉林は牙門将(がもんしょう)となり、蜀の滅亡後の264年に河東(かとう)へ移ったという。

管理人「かぶらがわ」より

范曄(はんよう)の『後漢書(ごかんじょ)』(郡国志〈ぐんこくし〉)によると、長沙郡に羅県という県がありました。本伝に出てくる羅侯(羅侯国)はここだと思いますが、劉封の実父の寇氏が、羅侯に封ぜられた経緯などはわかりませんでした。

劉備が、荊州の劉表(りゅうひょう)のもとへ身を寄せたのは201年のこと。そして、夫人の甘氏(かんし)が劉禅を生んだのは207年のこと。

本伝の記事からすると、劉封が劉備の養子として迎えられたのはこの間(201~207年)ということになります。201年の時点で劉備は40歳を超えていますから、跡継ぎがいないのは問題だったのでしょう。

後に帝位に即いた劉備ですけど、劉封はあくまで養子。実子の劉禅が誕生した後は居心地が悪かったと思います。

無理をしてでも関羽に援軍を出していれば、生き残ることができたのでしょうか? 魏に降った孟達の誘いに乗らなかったり、見るべきところもあったのですけど……。何だか気の毒な感じがします。

ただ、劉封の息子の劉林は処刑されなかったわけで、そのあたりにいくらかの配慮が見られますね。

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