【姓名】 孫鄰(そんりん) 【あざな】 公達(こうたつ)
【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)
【生没】 ?~249年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫賁伝(そんほんでん)』に付された「孫鄰伝」あり。
孫賁の息子
父は孫賁だが、母は不詳。
孫安(そんあん)・孫熙(そんき)・孫績(そんせき)は弟。ほかに曹操(そうそう)の息子の曹彰(そうしょう)に嫁いだ姉妹もいた。
息子の孫苗(そんびょう)は跡継ぎ。そのほかに孫旅(そんりょ)・孫述(そんじゅつ)・孫震(そんしん)・孫諧(そんかい)・孫歆(そんきん)という5人の息子がいた。
孫鄰は、わずか9歳で父の代理として豫章太守(よしょうたいしゅ)の職務にあたり、後に都郷侯(ときょうこう)に封ぜられた。豫章での在任期間は20年近くにも及び、この間に反乱を平定するなどの治績を上げた。
やがて武昌(ぶしょう)に召還され、繞帳督(ぎょうちょうとく)に任ぜられる。
その後、孫鄰は夏口(かこう)・沔中督(べんちゅうとく)に昇進して威遠将軍(いえんしょうぐん)となったが、いずれの職務においても立派な手腕を示した。
249年に死去し、息子の孫苗が跡を継いだ。
管理人「かぶらがわ」より
本伝によると、孫鄰が繞帳督に任ぜられたころ、太常(たいじょう)の潘濬(はんしゅん)が荊州(けいしゅう)を治めていたそうです。
「陳留(ちんりゅう)出身で重安県長(ちょうあんけんちょう)の舒燮(じょしょう)が罪を犯して投獄されると、潘濬は以前に舒燮を見損なうことがあったため、法に従い処刑しようと考えた。多くの者が舒燮のために執り成したが、潘濬は気持ちを変えなかった」
「そこで孫鄰は潘濬に、舒伯膺(じょはくよう)・舒仲膺(じょちゅうよう。舒邵〈じょしょう〉)兄弟が互いにかばい合って自分が死刑になろうとし、天下の人々が美談とした話を持ち出して言った」
「『もし天下が統一され、陛下(孫権〈そんけん〉)の車駕(みくるま。天子〈てんし〉の乗る車)が北へ行幸された暁には、中原(ちゅうげん。黄河〈こうが〉中流域)の人々は必ずや、仲膺どのの跡継ぎはどうしているかと尋ねるでしょう』」
「『しかし尋ねられた者は、潘承明(はんしょうめい。潘濬)どのが舒燮を殺されたのだと答えることになります。それでよろしいのでしょうか?』」
「孫鄰の言葉で潘濬の気持ちが解け、おかげで舒燮は処刑されずに済んだ」のだと。
孫鄰が舒燮を救ったというエピソードですね。
舒兄弟がかばい合った件は、本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く張華(ちょうか)の『博物志(はくぶつし)』に説明があり、「兄の舒伯膺の親友が殺された際、弟の舒仲膺(舒邵)があだ討ちをした。事が発覚すると兄弟は互いにかばい合い、自分が死刑になろうとし、結局ふたりとも許された」のだとか。
そして、舒燮はこの舒兄弟の一族なのだそうです。
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