【姓名】 黄崇(こうすう) 【あざな】 ?
【原籍】 巴西郡(はせいぐん)閬中県(ろうちゅうけん)
【生没】 ?~263年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 第117回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・黄権伝(こうけんでん)』に付された「黄崇伝」あり。
魏(ぎ)へ移った父と生き別れるも、己は蜀に殉ずる
父は黄権だが、母は不詳。黄邕(こうよう)という兄弟がいた。
221年、劉備(りゅうび)が帝位に即くと、自ら孫権(そんけん)討伐の東征を強行しようとする。父の黄権はこれを諫め、自身が先鋒を務めたいと願い出たものの聞き入れられなかった。
結局、黄権は鎮北将軍(ちんぼくしょうぐん)として江北(こうほく)の諸軍をひきい、魏軍の動きに備えることになった。
翌222年閏6月、劉備は猇亭(おうてい)で孫権配下の陸遜(りくそん)に大敗を喫し、永安(えいあん)まで退く。
ところが、黄権は道路が遮断されたために戻ることができず、同年8月、軍勢を挙げて魏に降伏した。
蜀に残された黄崇は父と離ればなれになったが、劉備の計らいで、母ともども以前と同じ待遇を受けた。やがて黄崇は尚書郎(しょうしょろう)に任ぜられる。
263年、魏の鄧艾(とうがい)が蜀へ侵攻したとき、黄崇は衛将軍(えいしょうぐん)の諸葛瞻(しょかつせん)に付き従って迎え撃つ。だが、諸葛瞻は涪県(ふうけん)から先へ進むのをためらった。
黄崇は、速やかに進軍して要害に拠り、敵を平地まで入れないようにすべきだと勧めたが、やはり諸葛瞻は迷って決断できない。
そのうち鄧艾の軍勢が迫ってくると、諸葛瞻は交戦しながら緜竹(めんちく)まで後退。ここで必死に戦ったものの、黄崇は諸葛瞻らとともに討ち死にした。
なお、魏に降った黄権は240年に亡くなり、息子の黄邕(黄崇の兄弟)が跡を継いだ。
管理人「かぶらがわ」より
221年の劉備の東征時に、父の黄権に随行していたなら、その後の黄崇の運命はまったく違うものになっていたでしょう。
とはいえ、蜀における黄崇の最期には、節義を貫いたことで評価された、黄権の息子らしいところが感じられますね。
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