尹黙(いんもく) ※あざなは思潜(しせん)

【姓名】 尹黙(いんもく) 【あざな】 思潜(しせん)

【原籍】 梓潼郡(しとうぐん)涪県(ふうけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第247話で初登場。
【演義】 第080回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・尹黙伝』あり。

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『左氏春秋(さししゅんじゅう)』に精通した学者

父母ともに不詳。尹宗(いんそう)という息子がいた。

益州(えきしゅう)には今文(きんぶん)の学(秦代〈しんだい〉以降の新字体のテキストを用いる解釈学)を貴ぶ者が多く、文字の正確な読み方や文章の区切りは重視しない風潮があった。

尹黙はそうした学問に不足を感じ、荊州(けいしゅう)へ遊学して司馬徽(しばき)や宋忠(そうちゅう)らから古文の学(蝌蚪〈かと。古代文字〉や大篆〈だいてん。篆書の一種〉で書かれたテキストを用いる解釈学)を教わる。

こうしてあらゆる経書や史書に通じたが、特に『左氏春秋』の研究に注力した。

劉歆(りゅうきん)の「条例(『左伝』の凡例を述べたもの)」をはじめ、鄭衆(ていしゅう)・賈徽(かき)・賈逵(かき)・陳元方(ちんげんほう)・服虔(ふくけん)の注説に至るまでほぼ暗唱でき、書物を調べ直す必要がなかったという。

214年、劉備(りゅうび)が成都(せいと)で劉璋(りゅうしょう)を降して益州牧(えきしゅうぼく)を兼ねると、尹黙は勧学従事(かんがくじゅうじ)に任ぜられる。

219年、劉禅(りゅうぜん)が王太子に立てられると、尹黙は太子僕(たいしぼく)に転じて『春秋左氏伝』を教授した。

ここでは「劉備が(劉禅を)太子に立てるに及び……」とだけあり、219年に劉禅が王太子に立てられたときのことなのか、221年に皇太子に立てられたときのことなのか、イマイチはっきりしなかった。

223年、劉禅が帝位を継ぐと、尹黙は諫議大夫(かんぎたいふ)に任ぜられた。

227年、丞相(じょうしょう)の諸葛亮(しょかつりょう)が北伐のため漢中(かんちゅう)に進駐した際、尹黙も軍祭酒(ぐんさいしゅ)として随行する。

234年、諸葛亮の陣没後、尹黙は成都へ帰って太中大夫(たいちゅうたいふ)に任ぜられ、後に死去(時期は不明)した。

息子の尹宗が尹黙の学問を伝え、やがて博士(はくし)になったという。

管理人「かぶらがわ」より

尹黙への突っ込みどころは特になかったのですけど、劉禅のことが気になりました。

劉禅は、それぞれの分野でしかるべき人物に就いて学んだようなのに、そういった逸話がほとんど残っていないのはなぜなのかなと……。

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