桓範(かんはん)

【姓名】 桓範(かんはん) 【あざな】 元則(げんそく)

【原籍】 沛国(はいこく)

【生没】 ?~249年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第106回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・曹真伝(そうしんでん)』に付された「桓範伝」あり。

曹爽(そうそう)らの巻き添えになる形で刑死

父母ともに不詳。息子がいたものの名は出てこない。

桓範の家は代々の名家で、彼も建安(けんあん)年間(196~220年)の末に曹操(そうそう)の丞相府(じょうしょうふ)へ入った。

220年には「羽林左監(うりんさかん)」となり、学識があったことから王象(おうしょう)らとともに『皇覧(こうらん)』の編集にもあたる。

曹叡(そうえい)の時代(226~239年)に「中領軍(ちゅうりょうぐん)・尚書(しょうしょ)」となり、「征虜将軍(せいりょしょうぐん)・東中郎将(とうちゅうろうしょう)・使持節(しじせつ)・都督青徐諸軍事(ととくせいじょしょぐんじ)」に昇進して下邳(かひ)に駐屯。

その折に徐州刺史(じょしゅうしし)の鄭岐(ていき)と家を奪い合い、(使持節の権限をもって)鄭岐を斬ろうとしたところ、鄭岐の上奏により非は桓範のほうにあると判断され、免職となって帰郷した。

やがて「兗州刺史(えんしゅうのしし)」に復帰したが、怏々(おうおう)と気が晴れずにいるうち、さらに「冀州牧(きしゅうのぼく)」への転任のうわさを聞いた。当時の冀州は鎮北将軍(ちんぼくしょうぐん)の呂昭(りょしょう)が管轄していたが、もともと彼は桓範の下位にいた人物だった。

桓範は妻の仲長(ちゅうちょう)に、「呂子展(りょしてん。『子展』は呂昭のあざな)に頭を下げることなどできるか」と言う。すると仲長は、かつて桓範が徐州刺史(鄭岐)を斬ろうとした件を持ち出し、皮肉で言い返した。

桓範は痛いところをつかれ腹を立て、刀の柄で妻のお腹を突いてしまう。このとき妻は懐妊していたが、流産のうえ亡くなった。結局、桓範は病気と称し冀州へ赴任しなかった。

曹芳(そうほう)の正始(せいし)年間(240~249年)になると「大司農(だいしのう)」に任ぜられる。以前、桓範は台閣(尚書台)にいたころ、職務に通暁しているとうたわれたが、ここで「大司農」となり、また清潔で簡明だと評価された。

桓範は沛国の出身者のうち、仕官した順番が曹真の次にあたっていた。このころ曹爽が政治を補佐していたが、彼は桓範を郷里の大先輩と見ており、九卿(きゅうけい)の中でも特に敬意を払う。それでも桓範は、曹爽とあまり親しくすることはなかったという。

249年、司馬懿(しばい)がクーデターを発動すると、桓範が政務に通じていたため、召し寄せて「中領軍」の役目を任せたいと考えた。

桓範は司馬懿の召しに応ずるつもりだったが、息子に諫められ、迷った末に城外の曹芳のもとへ行くことにした。こうして門候(もんこう。門を守る役人)の司蕃(しはん)に平昌門(へいしょうもん)を開けさせ、城外へ出て曹爽と会った。

桓範は、天子(てんし。曹芳)を奉じて許昌(きょしょう)へ行き、四方から軍勢を召集して守りを固めるよう進言。しかし、曹爽や弟の曹羲(そうぎ)は決心がつかず、そのまま翌朝になってしまった。

司馬懿の上奏を受け曹爽兄弟が罷免されると、桓範は曹芳のお供をして宮城へ戻り、詔(みことのり)によりもとの位に復する。

だが、大鴻臚(だいこうろ)のところに自首して出た司蕃の供述から、先に桓範が門を開けさせた際に語った言葉が、司蕃をたぶらかし反逆に導いたものと見なされた。

桓範は逮捕のうえ曹爽兄弟やほかの取り巻きたちと同様に処刑され、その三族(父母・妻子・兄弟姉妹、異説もある)も皆殺しになった。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた桓範の経歴については、ほぼ『三国志』(魏書・曹真伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によるものです。

ただ桓範のケースは、ここまで出てきた曹爽のほかの取り巻きたちと少し違う気もしました。彼の学識は司馬懿も評価していたようですし、最後に来て重要な判断を誤った、という感じでしょうか?

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