【姓名】 薛瑩(せつえい) 【あざな】 道言(どうげん)
【原籍】 沛郡(はいぐん)竹邑県(ちくゆうけん)
【生没】 ?~282年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 第120回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・薛綜伝(せつそうでん)』に付された「薛瑩伝」あり。
父子3代にわたって皇太子の教育を担う
父は薛綜だが、母は不詳。薛珝(せつく)は兄。薛兼(せつけん)という息子がいた。
薛瑩は、初め秘府郎(ひふろう)や中書郎(ちゅうしょろう)を務める。258年、孫休(そんきゅう)が帝位を継ぐと、散騎中常侍(さんきちゅうじょうじ)に任ぜられた。
数年後に病気のため辞職したが、264年、孫晧(そんこう)が帝位を継ぐと左執法(さしっぽう)として復帰。
やがて選曹尚書(せんそうしょうしょ)に昇進し、269年、孫瑾(そんきん)が皇太子に立てられると太子少傅(たいししょうふ)を兼ねた。
271年、孫晧は薛綜が残した文章を読んで感心し、その息子である薛瑩に命じて同様のものを作るよう命ずる。
そこで薛瑩は一編の詩を献じ、孫権(そんけん)・孫和(そんか)・孫晧をたたえ、薛氏一族への厚恩に感謝する気持ちを述べた。
この年、何定(かてい)の建議により、聖谿(せいけい)に運河を掘って長江(ちょうこう)や淮水(わいすい。秦淮水〈しんわいすい〉とも)まで水運を通ずることになる。
このとき薛瑩が1万の人夫を指揮して現場で監督にあたった。だが、巨大な岩が多くて工事が難航したため、計画を中止して引き揚げた。
これを受けて薛瑩は地方へ出され、武昌左部督(ぶしょうさぶとく)に転じた。
翌272年、何定が誅殺されると、薛瑩の聖谿における失敗が再び採り上げられ、投獄のうえで広州(こうしゅう)へ流される。
しかし右国史(ゆうこくし)の華覈(かかく)の上疏により、ほどなく召し還されて左国史に任ぜられた。
しばらく後、薛瑩と同郡の出身で選曹尚書の繆禕(びゅうい)が、自分の意見を主張して譲ろうとせず、一部の者の恨みを買う。
繆禕は衡陽太守(こうようたいしゅ)に左遷されることになったが、拝命後に過去の職務上の件で問責を受け、上表文をもって陳謝した。
繆禕が参内のついでに薛瑩のところへ立ち寄ると、また告げ口をする者がいて、「繆禕は己の罪を恐れず、賓客たちと薛瑩を訪ねて会合を開いた」と讒言(ざんげん)される。
そのため繆禕は投獄され、桂陽(けいよう)に流されることになり、薛瑩も広州へ戻されることになった。ただ薛瑩は広州へ着かないうちに、孫晧の召還命令が出されたので復職できた。
当時の法制は実情に合わないものが多く、人々の行動への規制もひどかった。たびたび薛瑩は改善案を上言し、刑罰を緩めて労役を減らすよう訴え、いくつかは実施された。
その後、薛瑩は光禄勲(こうろくくん)に昇進する。
280年、晋(しん)が呉へ大攻勢を仕掛けると、孫晧は、司馬伷(しばちゅう)・王渾(おうこん)・王濬(おうしゅん)に書簡を送って降伏を申し入れたが、この文章は薛瑩の書いたものだった。
呉が滅亡した後、薛瑩は晋都の洛陽(らくよう)へ移ったが、呉の旧臣中では真っ先に叙任され、散騎常侍となる。そして晋の朝廷にあっても、彼の応対や処置は、みな条理にかなったものだったという。
282年、薛瑩が死去すると、彼の残した8編の著作は『新議(しんぎ)』としてまとめられた。
管理人「かぶらがわ」より
本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王隠(おういん)の『晋書(しんじょ)』によると、薛瑩の息子の薛兼は、司馬睿(しばえい)の時代(317~322年)に太子少傅を務めたといいますから、祖父の薛綜と父の薛瑩を併せると、3代にわたって皇太子の教育にあたったことになります。
薛瑩は、孫晧の時代(264~280年)に九卿(きゅうけい)まで昇りながら、文才と学識をもって晋代まで生き残りました。
それでも運河工事の失敗やら、繆禕への讒言の巻き添えを食うやらで、危ない場面が何度もあったようですね。
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