【姓名】 王平(おうへい) 【あざな】 子均(しきん)
【原籍】 巴西郡(はせいぐん)宕渠県(とうきょけん)
【生没】 ?~248年(?歳)
【吉川】 第223話で初登場。
【演義】 第071回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・王平伝』あり。
街亭(がいてい)の大敗時にただひとり評価され、その後も蜀軍の中核として活躍
父は不詳だが、母は何氏(かし)。息子の王訓(おうくん)は跡継ぎ。
王平は母方の家で養育されたが、後に王姓に戻った。
王平は杜濩(とこ。賨邑侯〈そうゆうこう〉。巴〈は〉の七豪族のひとり)と朴胡(ふこ。蛮王〈ばんおう〉。同じく巴の七豪族のひとり)に付き従って洛陽(らくよう)へ赴き、校尉(こうい)に任ぜられた。
215年、王平は曹操(そうそう)の漢中(かんちゅう)討伐に従軍するも、このとき劉備(りゅうび)に降り、牙門将(がもんしょう)・裨将軍(ひしょうぐん)に任ぜられた。
228年、王平は参軍(さんぐん)の馬謖(ばしょく)の下で先鋒を務める。
だが、馬謖は水の手を捨てて街亭の山上に布陣したうえ、部下への命令は煩雑だった。王平が繰り返し諫めても聞き入れられず、馬謖は魏軍(ぎぐん)に大敗してしまう。
蜀軍も四散したが、王平配下の1千のみは太鼓を打ち鳴らして踏みとどまったため、魏将の張郃(ちょうこう)は伏兵の存在を疑い、あえて追ってこなかった。王平は諸軍営の残兵を収容しつつ、将士をひきいて無事に帰還を果たす。
街亭の大敗を受け、丞相(じょうしょう)の諸葛亮(しょかつりょう)は馬謖に加え、将軍の張休(ちょうきゅう)と李盛(りせい)を処刑し、黄襲(こうしゅう)らから兵を取り上げた。
その一方で王平は特別に評価。参軍の官位を加えたうえ、五部(異民族で構成された5つの部隊?)の統率を委ね、軍営の仕事に充てる。さらに討寇将軍(とうこうしょうぐん)に昇進させ、亭侯(ていこう)に封じた。
231年、諸葛亮が祁山(きざん)を包囲した際、王平は別に南の軍営を守る。
このとき魏の司馬懿(しばい)が諸葛亮を攻め、張郃が王平を攻めたが、王平は堅守して動かず、ついに張郃の攻撃を退けた。
234年、諸葛亮が武功(ぶこう)で陣没し、蜀軍も撤退。ここで魏延(ぎえん)が反乱を起こしたものの、王平の活躍によって一戦で片がつく。
王平は功により後典軍(こうてんぐん)・安漢将軍(あんかんしょうぐん)に昇進。車騎将軍(しゃきしょうぐん)の呉壱(ごいつ。呉懿〈ごい〉)の副官として漢中に留まり、漢中太守(かんちゅうたいしゅ)を兼ねる。
237年、王平は安漢侯に爵位が進み、呉壱に代わって督漢中(とくかんちゅう)となった。
翌238年、大将軍(だいしょうぐん)の蔣琬(しょうえん)が沔陽(べんよう)に駐留すると、王平は前護軍(ぜんごぐん)となり、蔣琬の将軍府の事務を取り仕切る。
243年、蔣琬が病のために召し還されて涪(ふう)に留まったとき、王平は前監軍(ぜんかんぐん)・鎮北大将軍(ちんぼくだいしょうぐん)に任ぜられ、漢中を統括した。
翌244年、魏の曹爽(そうそう)が歩騎10余万をひきいて漢川(かんせん)に向かい、その先鋒は駱谷(らくこく)まで侵入する。
このとき漢中の守備兵は3万に満たなかったので、蜀の諸将は大いに驚いた。ある者は、こちらから敵を防ぎに出るのは不利と見て、漢城(かんじょう)と楽城(らくじょう)を固守したほうがよいと述べる。
だが王平は聞き入れず、護軍の劉敏(りゅうびん)を興勢山(こうせいざん)に遣り、自らその後詰めとなった。
やがて涪の諸軍と、大将軍の費禕(ひい)が成都(せいと)から相次いで到着し、魏軍は撤退した。
248年、王平は死去し、息子の王訓が跡を継いだ。
管理人「かぶらがわ」より
本伝によると、王平は軍旅の中で成長したため文字が書けず、知っているのも10字足らずだったということです。こうした事情から、必要な文書を口述で作ったそうですが、これらはみな理にかなったものだったともありました。
また、人に『史記(しき)』や『漢書(かんじょ)』の諸紀伝を読ませ、これを聴いて概要をつかんだといい、彼の論評は本質から外れていなかったのだとか。
そして普段の王平は法を順守し、冗談を言うこともなく、朝から晩まできちんと座り、武将のように見えなかったという。ただし偏狭で疑い深く、軽率なところがあり、これが欠点だったとも。
王平の用兵術は理論ではなく、もっぱら実戦で磨かれたようですが、彼の欠点については意外なものでした。
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