樊建(はんけん) ※あざなは長元(ちょうげん)

【姓名】 樊建(はんけん) 【あざな】 長元(ちょうげん)

【原籍】 義陽郡(ぎようぐん)義陽県(ぎようけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第278話で初登場。
【演義】 第087回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・諸葛亮伝(しょかつりょうでん)』に付された「樊建伝」あり。

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人柄は宗預(そうよ)より上との評価を得る

父母ともに不詳。

251年、樊建は校尉(こうい)として呉(ご)への使者を務めたが、このとき孫権(そんけん)は重病のため会見できなかった。

その後、孫権が諸葛恪(しょかつかく)に尋ねる。

「樊建は(蜀の)宗預と比べてどうであったか?」

すると諸葛恪が答えた。

「才能や見識では宗預に及ばないでしょうが、性質では勝っていると思います」

後に樊建は侍中(じちゅう)となり、董厥(とうけつ)に代わって尚書令(しょうしょれい)を務める。

樊建が、諸葛瞻(しょかつせん)や董厥とともに政務を受け持ち、姜維(きょうい)が外征を繰り返すようになってから、宦官(かんがん)の黄皓(こうこう)が実権をほしいままにした。

しかしみな互いにかばい合い、この状況を矯正することはできなかった。それでも樊建だけは、黄皓と親しく付き合うことがなかったという。

263年、劉禅(りゅうぜん)が魏(ぎ)の曹奐(そうかん)に降伏し、蜀が滅亡。

翌264年春、樊建は、董厥らとともに魏都の洛陽(らくよう)へ上り、相国参軍(しょうこくさんぐん)に任ぜられる。

同年秋、ふたりとも散騎常侍(さんきじょうじ)を兼任したうえ、蜀の人々の慰撫(いぶ)にあたった。

後に樊建が晋(しん)の給事中(きゅうじちゅう)を務めていた折、司馬炎(しばえん)から諸葛亮の治国について下問を受ける。

樊建は、諸葛亮が自分の悪いところを聞けば必ず改めたこと、そして過ちを押し通そうとしなかったことを話す。また賞罰の明確さに至っては、神明をも感動させるに足るものだったと絶賛した。

司馬炎は立派だと評価し、彼を得て補佐役にできていれば、今日の苦労はなかっただろうと嘆ずる。

ここで樊建は、額を床に付けてお辞儀し、無実の罪で処刑された鄧艾(とうがい)の扱いを見直すよう進言。

司馬炎も了承して詔(みことのり)を下し、鄧艾の無実をはっきりさせたという。なお、その後の樊建については記事がない。

263年、鄧艾は魏の将軍として蜀の攻略時に大功を立てたが、成都(せいと)入り後、専断権を発動したことで同僚の鍾会(しょうかい)らに付け込まれ、讒言(ざんげん)を受けた末に死ぬことになった。鄧艾の個別記事を参照。

管理人「かぶらがわ」より

樊建が、司馬炎の下問に応えて諸葛亮の治国について述べた件は、本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く習鑿歯(しゅうさくし)の『漢晋春秋(かんしんしゅんじゅう)』に見えました。

樊建にも見どころがあったのでしょうけど、その彼に諸葛瞻・董厥・姜維を加えても、黄皓は抑えられなかったわけで――。この事実もまた、諸葛亮の偉大さを間接的に表しているのでしょう。

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