張承(ちょうしょう)B ※あざなは仲嗣(ちゅうし)、張昭(ちょうしょう)Aの息子

【姓名】 張承(ちょうしょう) 【あざな】 仲嗣(ちゅうし)

【原籍】 彭城国(ほうじょうこく)

【生没】 178~244年(67歳)

【吉川】 第301話で初登場。
【演義】 第102回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・張昭伝(ちょうしょうでん)』に付された「張承伝」あり。

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文武の才を兼ね備えた張昭の息子、諡号(しごう)は定侯(ていこう)

父は張昭だが、母は不詳。張休(ちょうきゅう)は弟。このほかに兄がいた可能性が高い。息子の張震(ちょうしん)は跡継ぎ。妻(後妻)は諸葛瑾(しょかつきん)の娘で、彼女との間に儲けた娘が孫和(そんか)に嫁いだ。

張承は若いころから才知と学問によって名を知られ、諸葛瑾・歩騭(ほしつ)・厳畯(げんしゅん)らと親しく付き合う。

219年、孫権(そんけん)が驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)になると、張承は招かれて西曹掾(せいそうえん)を務める。

やがて張承は地方へ出て長沙西部都尉(ちょうさせいぶとい)となり、山岳地帯に住む不服従民の討伐を進め、1万5千の精兵を配下に加えた。

後に濡須都督(じゅしゅととく)・奮威将軍(ふんいしょうぐん)に任ぜられて都郷侯(ときょうこう)に封ぜられ、5千の部曲(ぶきょく。私兵)を預かる。

244年、張承が67歳で死去すると、定侯と諡(おくりな)され、息子の張震が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、張承は勇敢で真心のある行いで知られ、人物鑑定にも秀でていたとのことでした。

彼が抜てきした蔡款(さいかん)や謝景(しゃけい)は、後に衛尉(えいい。蔡款)や豫章太守(よしょうたいしゅ。謝景)となり、国に欠かせぬ官僚と言われるまでに成長しています。

その一方で、若くして多くの人々から才能を高く評価されていた諸葛恪(しょかつかく)については、諸葛の家を滅ぼす者になると見ていました。

また張承は絶えず己を磨き、人々に思いやりをもって接したため、志ある者はみな彼の門を叩いたともあります。

父の張昭は学識で知られた名士でしたが、息子の張承は文武の才を兼ね備えた人物だったのですね。

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