鍾毓(しょういく)

【姓名】 鍾毓(しょういく) 【あざな】 稚叔(ちしゅく)

【原籍】 潁川郡(えいせんぐん)長社県(ちょうしゃけん)

【生没】 ?~263年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第107回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・鍾繇伝(しょうようでん)』に付された「鍾毓伝」あり。

父の余光もあり多くの諫言を通す。定陵恵侯(ていりょうのけいこう)

父は鍾繇、母は孫氏(そんし)か? 鍾会(しょうかい)は異母弟で、ほかにも兄弟がいたと思われる。息子の鍾駿(しょうしゅん)は跡継ぎで、鍾峻(しょうしゅん)と鍾辿(しょうてん)も同じく息子。

230年、鍾毓は鍾繇が死去したためその跡を継ぎ、「定陵侯」に封ぜられた。彼は14歳で「散騎侍郎(さんきじろう)」になったが、頭の回転が速く話しぶりもにこやか。父と似た風格を備えていたという。

228年、蜀(しょく)の諸葛亮(しょかつりょう)が祁山(きざん)を包囲し、天水(てんすい)・南安(なんあん)・安定(あんてい)の3郡の官吏と民衆が呼応する。

この際、曹叡(そうえい)は親征しようと考えたが、鍾毓は上奏して大軍を出すことを諫めた。結局、蜀軍を街亭(がいてい)で大破し、敵に呼応した3郡も再び平定される。

鍾毓は「黄門侍郎(こうもんじろう)」に昇進。このころ洛陽(らくよう)では宮殿の建設が盛んに行われており、御車は許昌(きょしょう)へ行幸した。

朝臣は許昌へ参内して命令を受けたが、城内が手狭だったため城南に毛氈(もうせん)をもって天幕を張る。そこに見せ物として、魚や龍(りゅう)、曼延(まんえん。巨獣の名)の作り物を置き、民は労役に疲れ果てた。

鍾毓は、季節外れの大水や干ばつによって金蔵が空っぽだとし、「およそこのようなことは豊年を待ってからすべきです」と諫言。さらに、関内(かんだい)の荒れ地の開墾を進め、民が農業に集中できるようにすべきだとも進言し、曹叡に容れられた。

曹芳(そうほう)の正始(せいし)年間(240~249年)に「散騎常侍(さんきじょうじ)」となる。

244年、大将軍(だいしょうぐん)の曹爽(そうそう)が夏の盛りに軍勢を動かし蜀を攻撃。しかし、敵の防戦と大雨に遭って進めなくなり、増援を求めてくる。鍾毓は書簡を送って曹爽の態度を諫め、戦況を考え撤退するよう勧めた。こうして魏軍は功なく帰還した。

その後、曹爽の機嫌を損ねたことで「侍中(じちゅう)」に転じ、次いで地方へ出て「魏郡太守(ぎぐんのたいしゅ)」となる。

249年に曹爽が誅殺されると、中央へ戻り「御史中丞(ぎょしちゅうじょう)」「侍中」「廷尉(ていい)」を歴任。

主君や父が死去した後、その臣下や子に(主君や父に対する)誹謗(ひぼう)を取り締まる権利を認めたこと。また、士が侯に取り立てられた際、それまでの妻を取り換えなくなったことは鍾毓の建議によるものだった。

255年、鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)の毌丘倹(かんきゅうけん)と揚州刺史(ようしゅうしし)の文欽(ぶんきん)が謀反を起こす。鍾毓は「持節(じせつ)」として揚州や豫州(よしゅう)を巡り恩赦令を頒布。士人や民衆を説諭し、帰還後に「尚書(しょうしょ)」となった。

257年、司空(しくう)の諸葛誕(しょかつたん)が淮南(わいなん)で謀反を起こした際には、大将軍の司馬昭(しばしょう)に付き従い平定にあたる。平定後は「青州刺史(せいしゅうのしし)」となり、「後将軍(こうしょうぐん)」の官位を加えられた。

のち「都督徐州諸軍事(ととくじょしゅうしょぐんじ)」に昇進して「仮節(かせつ)」となる。さらに「都督荊州諸軍事(ととくけいしゅうしょぐんじ)」に転じた。

263年に死去すると「車騎将軍(しゃきしょうぐん)」の官位を追贈され「恵侯」と諡(おくりな)される。息子の鍾駿が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

鍾毓の父の鍾繇は魏建国の功臣でした。亡くなったときは「太傅(たいふ)」を務めており、「定陵侯」として1800戸の封邑(ほうゆう)も持っていました。

鍾毓はその跡を継いだので、まぁ「名家の若さま」といった感じでしょう。そういう背景もあるからか、たびたび思い切った諫言をしており、これが多く採り上げられています。

切れ者の異母弟の鍾会は、大きすぎる野望を抱き蜀の地で死ぬことになりました。『三国志』(魏書・鍾会伝)によれば、264年1月、鍾会は鍾毓の訃報に接しないうち(味方の将兵によって)殺害されてしまいます。鍾会の兄の子である鍾邕(しょうよう)も、彼に随行していて同じく殺されました。

ただ司馬昭の上奏により、鍾会が養育していた兄の子の鍾毅(しょうき)・鍾峻・鍾辿のうち、鍾峻と鍾辿については特に恩赦が与えられ、官爵をもと通りにされたとあります。鍾繇や鍾毓の功績が考慮され、族滅を免れたのですね。

この辺りで何人か出てきた「(鍾会の)兄の子」という表現がわかりにくい感じ。鍾峻と鍾辿は鍾毓の息子でしょうけど、鍾邕と鍾毅もそうだったのか? それとも鍾会から見て「別の兄の子」だったのか?

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