朱才(しゅさい) ※あざなは君業(くんぎょう)

【姓名】 朱才(しゅさい) 【あざな】 君業(くんぎょう)

【原籍】 丹楊郡(たんようぐん)故鄣県(こしょうけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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孫権(そんけん)にかわいがられた朱治(しゅち)の息子

父は朱治だが、母は不詳。伯母の家から養子として迎えられた朱然(しゅぜん)は兄になる。朱紀(しゅき)・朱緯(しゅい)・朱万歳(しゅばんさい)は弟。息子の朱琬(しゅえん)は跡継ぎ。

224年、朱才は朱治が死去したため跡を継ぎ、故鄣侯に封ぜられた。このとき彼は校尉(こうい)として兵士を預かっていたが、後に偏将軍(へんしょうぐん)に昇進した。

なお、その後の朱才については記事がない。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(呉書〈ごしょ〉・朱治伝)によるものです。

また、その裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く韋昭(いしょう。韋曜〈いよう〉)の『呉書』には、以下のようにありました。

朱才は聡明で騎射にも長けていたため、孫権から特に目をかけられ、いつも遊楽のお供をした。父の朱治が要職にあったことから、朱才も若くして武衛校尉(ぶえいこうい)に任ぜられ、兵士をひきいて各地の討伐で功を立てた。

しかし郷里では、朱才が若いうちに高位に昇り、地元の者を気にかけていないと評したので、その後の彼はこれまで以上にへりくだり、集まった食客の面倒をよく見たり、財を惜しまずに援助して道義を重んじ、兵法も熱心に学んだ。

だが、そのうち朱才の名声が遠近に聞こえるようになったころ病死(時期は不明)してしまった。

朱才は生年も没年もはっきりしませんが、『三国志』(呉書・朱然伝)によると、まだ息子がいなかった朱治が、姉の嫁ぎ先から13歳の施然(しぜん。朱然)を養子に迎えたのが194年のことでした。

そして『三国志』(呉書・朱然伝)に付された「朱績伝(しゅせきでん)」によると、朱績は叔父の朱才が死去すると、配下の兵士を引き継ぎ、太常(たいじょう)の潘濬(はんしゅん)に付き従って五谿(ごけい)の異民族を討伐したといいます。

この討伐は231年のことですから、朱才が病死したのもこのころ(231年より前)かと思われます。一方で生年は194年以降ということになりますから、享年は30前後でしょう。

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