程秉(ていへい) ※あざなは徳枢(とくすう)

【姓名】 程秉(ていへい) 【あざな】 徳枢(とくすう)

【原籍】 汝南郡(じょなんぐん)南頓県(なんとんけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第135話で初登場。
【演義】 第038回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・程秉伝』あり。

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孫登(そんとう)に仕えた太子太傅(たいしたいふ)

父母ともに不詳。

程秉は鄭玄(ていげん。じょうげん。127~200年)の下で学んだ後、世の混乱を避けて交州(こうしゅう)へ移住する。

そしてかの地で劉熙(りゅうき)と出会い、物事の原理について意見を交わすうち、広く五経にも通じた。

やがて程秉は交阯太守(こうしたいしゅ。交趾太守)の士燮(ししょう)の長史(ちょうし)となり、次いで孫権(そんけん)の手厚い招きに応じて太子太傅に任ぜられた。

225年、王太子の孫登が周瑜(しゅうゆ)の娘を娶(めと)ることになると、程秉は太常(たいじょう)として妃(きさき)を呉県まで迎えに行く。

後に程秉は在官のまま病死(時期は不明)したが、『周易摘(しゅうえきてき)』『尚書駁(しょうしょばく)』『論語弼(ろんごひつ)』など3万余字の著作を残したという。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると程秉は孫登に、婚姻は人倫の始まりであり、王者の教化の基礎となるものとし、そのため古代の聖王が率先して模範を示し、天下を教化したと述べたうえ、『詩経(しきょう)』では(仲むつまじい鳥とされる)関雎(かんしょ)を褒める詩が冒頭に置かれていることに触れ、夫婦の間でも礼教を尊重するよう説いていました。

孫登は長男ですし、その人格も優れていましたが、彼が241年に33歳で亡くなったことから、孫権の跡継ぎに絡む騒動が起きてしまいました。

もし孫登が帝位を継いでいたら、呉のたどる道はまったく違うものになっていたのかもしれません。

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