呂範(りょはん) ※あざなは子衡(しこう)

【姓名】 呂範(りょはん) 【あざな】 子衡(しこう)

【原籍】 汝南郡(じょなんぐん)細陽県(さいようけん)

【生没】 ?~228年(?歳)

【吉川】 第054話で初登場。
【演義】 第015回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・呂範伝』あり。

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不遇時代の孫策(そんさく)に助力し、身内同様の扱いを受ける

父母ともに不詳。息子の呂拠(りょきょ)は跡継ぎで、このほかにも早くに亡くなった長男がいた。妻は劉氏(りゅうし)。

呂範は若いころ県吏になったが、立派な風采を備えていたという。

後に戦乱を避けて寿春(じゅしゅん)へ行き、孫策と出会うと高く評価される。そこで呂範は孫策に仕える決断をし、100人の食客を引き連れて付き従った。

このころ孫策の母の呉氏が江都(こうと)にいたので、呂範が使者となって迎えに行く。

徐州牧(じょしゅうぼく)の陶謙(とうけん)は、呂範が袁術(えんじゅつ)のために情勢を探りに来たものと考え、県に命じて捕らえさせたうえ拷問を加える。

しかし、呂範は食客や血気盛んな兵士らの手で救い出された。

呂範と孫河(そんか)は常に孫策に付き従い、山野を渡り歩いて苦労を重ね、危難を避けることもなかった。そのため孫策から身内としての待遇を受け、よく奥座敷まで上がり、呉氏の御前で酒食をともにしたほどだった。

後に呂範は孫策に付き従って廬江(ろこう)を攻め破り、向きを転じて江東(こうとう)へ渡る。

そして、横江(おうこう)や当利(とうり)で劉繇(りゅうよう)配下の張英(ちょうえい)や于麋(うび)を討ち破り、小丹楊(しょうたんよう)と湖熟(こじゅく)を降すと、呂範は湖熟国相(こじゅくこくしょう)を務めた。

やがて孫策が秣陵(ばつりょう)と曲阿(きょくあ)を平定し、劉繇や笮融(さくゆう)の残党を取り込むと、呂範は兵2千人と騎馬50頭を加増された。

その後、呂範は宛陵県令(えんりょうけんれい)を務めて丹楊の不服従民を討伐し、呉県に戻って都督(ととく)を務める。

このころ陳瑀(ちんう)が呉郡太守(ごぐんたいしゅ)を自称して海西(かいせい)におり、かの地の豪族の厳白虎(げんぱくこ)と通じた。

孫策自ら厳白虎の討伐にあたる一方、呂範と徐逸(じょいつ)は海西の陳瑀を攻め、部将の陳牧(ちんぼく)をさらし首にする。

さらに呂範は、陵陽(りょうよう)にいる祖郎(そろう)や(涇県〈けいけん〉の)勇里(ゆうり)にいる太史慈(たいしじ)への攻撃にも加わり、これら7県の平定後は征虜中郎将(せいりょちゅうろうしょう)に任ぜられた。

続いて孫策は江夏(こうか)へ遠征した後、軍勢を返して鄱陽(はよう)を平定。

200年、孫策が急死すると、呂範は呉県で執り行われた葬儀に駆けつける。

203年、孫権(そんけん)が江夏の黄祖(こうそ)討伐のために遠征した際、呂範は張昭(ちょうしょう)ともども呉郡に留まり、留守を預かった。

208年、周瑜(しゅうゆ)らとともに赤壁(せきへき)で曹操軍(そうそうぐん)を撃破すると、呂範は功により裨将軍(ひしょうぐん)・彭沢太守(ほうたくたいしゅ)となり、彭沢・柴桑(さいそう)・歴陽(れきよう)の3県を封邑(ほうゆう)として賜る。

翌209年?、劉備(りゅうび)が京城(けいじょう。京口〈けいこう〉)で孫権と会見したとき、呂範は密かに進言し、劉備をこのまま引き留めておくよう勧めた。

後に呂範は平南将軍(へいなんしょうぐん)に昇進し、柴桑に駐屯した。

219年、孫権が荊州(けいしゅう)の関羽(かんう)討伐に向かうと、呂範は建業(けんぎょう)の守りを託される。

孫権が討伐を果たして帰還し、武昌(ぶしょう)へ本拠地を移すと、呂範は建威将軍(けんいしょうぐん)・丹楊太守に任ぜられ、宛陵侯に封ぜられた。

そして建業に役所を置き、扶州(ふしゅう)から海に至るまでの地域の監督にあたり、これまでの封邑に代えて、溧陽(りつよう)・懐安(かいあん)・寧国(ねいこく)の3県を賜った。

222年、魏(ぎ)の曹休(そうきゅう)・張遼(ちょうりょう)・臧霸(そうは)らが洞口(どうこう)に攻め寄せると、呂範は徐盛(じょせい)・全琮(ぜんそう)・孫韶(そんしょう)らとともに、水軍をひきいて防戦にあたる。

だが暴風に遭い、船が転覆して水夫が溺れ、数千の死者を出しただけで引き揚げた。

それでも魏軍の侵攻から領土を守り抜いたことが評価され、前将軍(ぜんしょうぐん)・仮節(かせつ)に昇進し、南昌侯(なんしょうこう)に移封された。さらに帰還後には揚州牧(ようしゅうぼく)に任ぜられた。

228年、呂範は大司馬(だいしば)に昇進するが、その印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を受け取る前に病死した。

孫権は喪服を着けて哭礼(こくれい。大声を上げて泣く礼)を行い、遺族のもとへ使者を遣り、呂範の印綬を追贈したという。

呂範の長男は早くに亡くなっていたため、次男の呂拠が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、呂範は作法にかなった重々しい振る舞いを好んだため、揚州に住む陸遜(りくそん)や全琮をはじめ、貴公子たちはみな彼に揚州牧として敬意を払い、丁重に扱ったそうです。

また、呂範の住まいや衣服は贅沢(ぜいたく)なものでしたが、孫権は日ごろの忠勤を鑑みてとがめなかったのだとか。

同じく本伝には、かつて呂範が孫策から経理を任されていたころの話もありました。

このころ孫権はまだ若く、呂範のところへ来ては金の無心を繰り返します。ところが呂範は自分の判断で金を渡さず、必ず孫策の許しを得るようにしていたので、孫権に恨まれました。

その孫権が陽羨県長(ようせんけんちょう)を務めていたとき、公金を私用に遣ったことがありました。

孫権が陽羨県長に任ぜられたのは196年のこと。

すると配下の功曹(こうそう)の周谷(しゅうこく)が帳簿を書き換え、監査の際に問題にならないよう取り計らいます。

このとき孫権は周谷の配慮を喜んでいましたが、後に一国を治めるようになると、呂範の態度こそ忠義であると悟り、彼に厚い信頼を寄せたのでした。

ちなみに周谷のほうは、勝手に帳簿を書き換える人物として任用しなかったという。これはこれで、ちょっと気の毒かも?

呂範の用兵はイマイチな印象も受けますが、彼が孫氏の支配体制の確立に大きく貢献したことは、紛れもない事実ですね。

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