賈詡(かく)

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【姓名】 賈詡(かく) 【あざな】 文和(ぶんか)

【原籍】 武威郡(ぶいぐん)姑臧県(こそうけん)

【生没】 147~223年(77歳)

【吉川】 第041話で初登場。
【演義】 第009回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・賈詡伝』あり。

幾人もの主君のもとを渡り歩きながら、謀略の才をもってしたたかに生き残る

父母ともに不詳。息子の賈穆(かぼく)は跡継ぎ。賈訪(かほう)も同じく息子。

まだ賈詡が若かったころ、彼の才を認める者はいなかった。ただ閻忠(えんちゅう)だけは評価し、「賈詡には張良(ちょうりょう)や陳平(ちんぺい)(ふたりとも漢〈かん〉の高祖〈こうそ〉に仕えた策士)のような奇略がある」と言っていた。

賈詡は孝廉(こうれん)に挙げられ「郎(ろう)」となったが、病気のため辞職する。

189年、董卓(とうたく)が洛陽(らくよう)に入城すると、賈詡は「太尉掾(たいいのえん)」のまま「平津都尉(へいしんとい)」に任ぜられ、のち「討虜校尉(とうりょこうい)」に栄転した。

そのころ董卓の娘婿の牛輔(ぎゅうほ)が陳留(ちんりゅう)や潁川(えいせん)の諸県を攻略するべく陝(せん)に駐屯しており、賈詡はその軍中にいた。

192年4月に董卓が誅殺されると、牛輔もまた殺されてしまったので、配下の兵士たちは恐れおののく。董卓配下の「校尉」だった李傕(りかく)・郭シ(かくし。氵+巳)・張済(ちょうせい)らは、軍を解散したうえで間道づたいに郷里へ帰ろうと考える。

だが、賈詡はその方針に反対。このまま軍勢を引き連れ西へ向かい、長安(ちょうあん)を攻めて董卓の復讐(ふくしゅう)をするよう勧めた。

同年5月に長安を陥すと、賈詡は「左馮翊(さひょうよく。左馮翊の長官)」となる。李傕らは功績を評価し侯に封じようとしたが、賈詡は固辞して受けなかった。「尚書僕射(しょうしょぼくや)」への就任要請も受けず、結局は「尚書」として官吏の選抜や登用をつかさどることになる。

李傕らは彼を信任しながら煙たがる様子も見せたため、賈詡は母が亡くなったことを理由に官職を辞し、「光禄大夫(こうろくたいふ)」に転じた。

195年、李傕と郭シが仲たがいし、長安の市中で戦闘を繰り広げるようになると、賈詡は李傕の要請で「宣義将軍(せんぎしょうぐん)」に就任。やがてふたりが和睦したので献帝(けんてい)は長安を出られたが、このとき大臣らを守り助けた点には賈詡の力があった。

同年7月に献帝が長安を出た後、賈詡は将軍の印綬(いんじゅ)を返上する。当時、将軍の段煨(だんわい)が華陰(かいん)に駐屯していた。そこで賈詡は李傕のもとを離れ、同郡出身でもある段煨のもとに身を寄せた。

賈詡は名の知れた人物だったので、軍中で期待の的になる。段煨は実権を奪われることを恐れつつ、表面的には彼を立てて礼遇したため、ますます賈詡は不安になった。

197年、南陽(なんよう)にいた張繡(ちょうしゅう)が賈詡とひそかに手を結び、人を遣って迎えに行かせる。張繡の厚遇を受け、賈詡は劉表(りゅうひょう)との同盟を進言した。

翌198年、曹操(そうそう)が張繡討伐に乗り出したものの、突然、軍を撤退させる。

賈詡は追撃しないよう言ったが、張繡は聞かずに自ら敵を追う。張繡が予想どおり大敗して戻ると、賈詡は先の発言とは一変し、急いで追撃するよう勧める。こうして再び張繡が追撃に出たところ、今度は大勝を収めた。

いぶかる張繡に賈詡が説き聞かせる。

「あなたは戦上手ですが、曹操にはかないません。敵は撤退し始めたとはいうものの、必ず曹操自身が殿軍(しんがり)となり、こちらの追撃を断とうとする。これを追撃する兵が精鋭でも、大将のあなたが曹操にかなわぬうえ、敵もまた精鋭なのです。そのため初めの追撃では敗戦するに違いないと考えました」

「曹操には作戦の失敗があったわけではなく、力を出し尽くす前に撤退したのです。領内で何か起こったものと思われます。ですが、一度あなたを討ち破った後は兵に軽装させ全速力で進むはずで、たとえ勇猛な将軍を殿軍に残したとしてもあなたにはかなわない。だから二度目は敗残の兵を用いて戦っても、勝利は間違いないと思ったのです」

これを聞き、張繡は初めて納得し感服した。

翌199年、曹操と袁紹(えんしょう)が官渡(かんと)で対峙(たいじ)した際、袁紹は使者を遣って張繡を招き、同時に賈詡にも手紙を送り味方に引き入れようとした。

張繡は承知するつもりだったが、賈詡は使者との会合の席で袁紹の申し出をきっぱりと拒否する。驚く張繡に賈詡は利害を説き聞かせ、むしろ曹操に従うよう勧めた。

同年11月、張繡が軍勢をひきいて帰順すると、曹操は大いに喜ぶ。賈詡は「執金吾(しつきんご)」に任ぜられ「都亭侯(とていこう)」に封ぜられた。

のち賈詡は「冀州牧(きしゅうのぼく)」に栄転したが、まだ冀州が平定されていなかったため、曹操のそばに留め置かれ「参司空軍事(さんしくうぐんじ)」を務めた。

曹操が「司空」を務めていた期間は196~208年。

曹操は兵糧が尽きたものの、賈詡の進言に従って軍勢をひとつに併せ、袁紹の本営から30余里(り)の軍営を討ち破る。袁紹軍は壊滅状態となり、曹操は河北(かほく)を平定することができた。曹操が「冀州牧」を兼ね、賈詡は「太中大夫(たいちゅうたいふ)」に転じた。

208年、曹操は荊州(けいしゅう)を討ち破り、さらに長江(ちょうこう)の流れに沿い東へ向かおうとする。賈詡は反対の意見を述べたが容れられず、曹操軍も勝利を得ることができなかった。

211年、曹操が馬超(ばちょう)・韓遂(かんすい)と渭水(いすい)の南で戦ったとき、馬超らは和睦の条件として土地の割譲を要求すると同時に、人質を送るとも言ってきた。

賈詡は偽りの承諾を与え、彼らを離間するのがよいと主張。馬超と韓遂を討ち破ることができたのは賈詡の計略のおかげだった。

このころ曹丕(そうひ)は「五官中郎将(ごかんちゅうろうしょう。211~217年)」だったが、弟で臨菑侯(りんしこう。214~221年)の曹植(そうしょく)の評判が高かった。曹丕は賈詡に助言を仰ぎ、彼の意見に従い深く自身の修養に努めた。

217年のこと、曹操は左右の者を退け、賈詡に後継者問題を諮問する。初め賈詡は押し黙ったまま答えず、重ねて問われるとようやくこう言った。

「袁本初(えんほんしょ。『本初』は袁紹のあざな)父子と劉景升(りゅうけいしょう。『景升』は劉表のあざな)父子のことを考えていたのです」

曹操は大笑いし、曹丕を「王太子(おうたいし)」にする決心がついた。袁紹と劉表はともに後継者問題で嫡子を廃したため、その死後に内輪もめを招いていたからである。

賈詡は曹操の旧臣でもないのに策略に長じていたため、疑惑を持たれることを恐れた。そこで門を閉ざしてひっそりと暮らし、朝廷から退出した後は私的な交際をせず、息子や娘たちの結婚相手に貴族の家柄を選ばなかった。

220年、曹丕が帝位に即くと賈詡は「太尉」に任ぜられ、「魏寿郷侯(ぎじゅきょうこう)」に爵位が進む。300戸の加増を受け、以前と合わせて封邑(ほうゆう)は800戸となった。

曹丕から蜀(しょく)と呉(ご)のどちらを先に討伐すべきかと下問されると、今は文を先とし、武を後にされるのが妥当だと述べ、出兵自体に反対した。だが曹丕は聞き入れず、(222年に)江陵(こうりょう)の戦役を起こし多くの戦死者を出してしまう。

223年、賈詡は77歳で死去し「粛侯(しゅくこう)」と諡(おくりな)される。息子の賈穆が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

裴松之(はいしょうし)は、賈詡が李傕らに長安を攻めるよう勧めたことを、その注の中で激しく批判していました。

「当時すでに董卓が誅殺され、ようやく世界が明るくなろうとしていたのに、災いの糸口を重ねて結び、盛んに害毒を撒(ま)き散らし、国家を衰微の憂き目に遭わせ、民に周(しゅう)の末期と同じ過酷さを味わわせることになったのは賈詡の片言のせいではないか」

「賈詡の罪の何と大きいことよ。昔から動乱の端緒となったもので、これほどひどいのはいまだあった例しがない」

また裴松之は、賈詡の伝が二荀(にじゅん。荀イク〈じゅんいく〉と荀攸〈じゅんゆう〉)と並列されていることも気に入らないようで……。

彼の伝を程イク(ていいく。日+立)や郭嘉(かくか)の伝と一緒に編まなかったのは、類別を誤っているとしたうえ、「荀攸と賈詡の人柄は夜光の珠と苧殻(おがら)の灯火ほどの隔たりがある。照らすという点では同じだが、まったく性質が違っている」と述べています。

賈詡の献策というのは、確かに二荀のそれとは性質が異なっていますし、伝の類別についても裴松之の指摘どおりかと思います。ただ、きれいごとだけで生き残るのが難しかった時代。みなが二荀のような人柄で、というわけにもいかなかったでしょう。

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