吉川『三国志』の考察 第109話 「のら息子(のらむすこ)」

黄河(こうが)北岸への上陸を果たした関羽(かんう)一行。ほどなく汝南(じょなん)で別れたきりになっていた孫乾(そんけん)と再会し、数日前に劉備(りゅうび)が汝南へ向かったことを聞く。

そのため関羽は向きを変え汝南を目指すが、ある晩に泊めてもらった家の主人の郭常(かくじょう)は、息子の所業にほとほと手を焼いていた。

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第109話の展開とポイント

(01)河北(かほく)

関羽(かんう)一行は黄河(こうが)の北岸に着くと、また車を陸地に揚げ、簾(れん)を垂れて劉備(りゅうび)の二夫人を隠し再び旅を続けた。そうして幾日目かのこと、汝南(じょなん)で別れたきりになっていた孫乾(そんけん)と出会う。

関羽が汝南で孫乾と別れたことについては、先の第105話(02)を参照。

吉川『三国志』の考察 第105話 「風の便り(かぜのたより)」
曹操(そうそう)と袁紹(えんしょう)の戦いは長引き、袁紹が陽武(ようぶ)へ移ると、曹操もひとまず許都(きょと)へ帰った。汝南(じょなん)で曹洪(そうこう)が黄巾(こうきん)の残党に苦戦しているとの急報が届くと、関羽(かんう)は曹操に...

孫乾は、袁紹(えんしょう)の帷幕(いばく。作戦計画を立てる場所)にいろいろな内紛が起こったため、当初の計画が食い違ってきたことを話す。劉備は孫乾と密かに示し合わせ、つい2、3日前に河北を出て汝南へ向かったという。

そこで関羽は道を変え、孫乾の案内で汝南へと急ぐ。するとまだ遠く行かないうち、後方から300騎ほどの一隊が追いついてくる。関羽は孫乾に二夫人の車を守らせ、ただ一騎で引き返して待ち構えた。

やってきたのは曹操(そうそう)配下の夏侯惇(かこうじゅん)。夏侯惇が、五関で六将を斬ったことを責め関羽に挑みかかると、ふたりは10合(ごう)、20合と戦う。

そのとき曹操の急使が駆けつけた。急使は馬上のまま曹操直筆の告文を取り出してふたりを制す。しかし夏侯惇は、この告文が関羽が六将を斬る前に出されたものだとわかると、あくまで彼を生け捕りにすると言う。

こうしてふたりが戦いを続けると二度目の早馬が駆けてきて、双方に武器を引くよう伝える。曹操は後から関羽の道中での難儀を思い、次々と三度まで告文を発したのだという。

それでも夏侯惇は耳を貸さず、さらにふたりは戦い続ける。そして人馬とも疲れだしたころ、今度は張遼(ちょうりょう)が早馬でやってきた。

張遼になだめられると、夏侯惇もしぶしぶながら軍兵を収めて帰る。やがて張遼も許都(きょと)へ帰ったが、その別れ際、関羽は言づてに曹操の信義を謝し、大切な部下を殺めたことも詫びた。

ここで夏侯惇が張遼に、関羽に殺された秦琪(しんき)は猿臂将軍(えんぴしょうぐん)の蔡陽(さいよう。蔡揚)の甥で、特に蔡陽が自分を見込んで預けた部下だと話していた。「猿臂将軍」については先の第107話(02)を参照。

(02)郭常(かくじょう)の家

関羽は赤兎馬(せきとば)を走らせ二夫人の車に追いついたが、冷たい通り雨に遭いみな濡(ぬ)れてしまった。

その晩、泊めてもらった民家の炉で人々は衣類を火にかざし合う。主の郭常は人のよさそうな人物で、羊を屠(ほふ)って炙(あぶ)り肉にしたり、酒を温め一同を慰めたりしてくれた。

郭常は関羽と孫乾に、息子が明け暮れ狩猟ばかりして、少しも農耕や学問をしないと愚痴をこぼす。

ここで、みなが寝静まってからひとつの事件が起こる。5、6人の悪党が忍び込み、厩(うまや)の赤兎馬を盗み出そうとしたところ、そのうちのひとりが跳ね飛ばされたらしく、物音でみな目を覚まして大騒ぎになったのだ。

しかも、孫乾や扈従(こじゅう)の者たちが捕まえてみると、仲間のひとりはこの家ののら息子だった。孫乾は斬ってしまえと息巻いたが、郭常は関羽のところに慟哭(どうこく)して転げ込み、息子の命乞いをする。

関羽のひと言で泥棒は放されることになった。翌朝も、郭常夫婦はわが子の恩人と、首を並べて百拝する。

関羽は息子に訓戒を加えてやろうとし、呼んでくるように言ったが、早暁また悪友5、6人と組み、どこかへ出かけてしまっていた。

(03)汝南へ向かう関羽一行

関羽らは郭常の家を発ち、翌日は山道に入る。ひとつの峠へ来たとき、黄巾(こうきん)の残党で大方(だいほう)の「裴元紹(はいげんしょう)」と名乗る山賊の大将が、100人ばかりの手下を連れて現れた。

おかしさを感じた関羽は自分の髯(ひげ)を左手に握ってみせ、「これを知らぬか?」と言う。

すると裴元紹は関羽と気づき、馬から飛び下りたかと思うと不意に手下の後ろからひとりの若者を引きずり出した。郭常ののら息子だった。

事情を聞いた裴元紹は首を短剣で搔(か)き落とそうとするが、関羽に制止される。道端に放り出されたのら息子は、命からがら谷底へ逃げ込んだ。

関羽は裴元紹に、ここから20里(り)ほど先の臥牛山(がぎゅうざん)に住んでいるという「周倉(しゅうそう)」の話を聞く。

参考文献に挙げた『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると「『臥牛山』は山の名。後漢(ごかん)・三国時代には存在しない」という。

また、「河南省(かなんしょう)嵩県(すうけん)の西南には『伏牛山(ふくぎゅうざん)』という山脈があり、当時の司隷州(しれいしゅう)弘農郡(こうのうぐん)から荊州(けいしゅう)南陽郡(なんようぐん)に及んでいる。『三国志演義』の『臥牛山』は、あるいはこれを指しているかもしれない」ともいう。

なお、ここで出てきた「周倉」の名は正史『三国志』には見えない。

裴元紹は諭され改心を誓い、山中の道案内を務めて十数里進む。やがて関羽に、路傍にうずくまり拝礼を施しているのが周倉だと告げた。

管理人「かぶらがわ」より

河北から汝南へと行き先を変えた関羽。のら息子の話はどういう意図で使われたのかよくわかりませんでしたが、そこからの流れで周倉との出会いがあるわけですね。

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吉川『三国志』 (5) 孔明の巻
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今日も三国志日和 – 史実と創作からみる三国志の世界 –

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