吉川『三国志』の考察 第057話「小覇王(しょうはおう)」

神亭山(しんていざん)における一騎討ちでは劉繇(りゅうよう)配下の太史慈(たいしじ)と引き分けた孫策(そんさく)だったが、別動部隊を使って劉繇の本拠である霊陵城(れいりょうじょう)を攻略する。

孫策は追撃の手を緩めようとせず、劉繇はわずかな残兵とともに荊州(けいしゅう)の劉表(りゅうひょう)を頼って逃げ落ちた。

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第057話の展開とポイント

(01)神亭山の南 劉繇の本営

劉繇の陣前まで攻め寄せた孫策だったが、昨日の一騎討ちで奪われた兜(かぶと)をさらされ太史慈に笑い返されると、勝負をつけようと馬を躍らせかける。

それを制した程普(ていふ)が太史慈に向かっていく。ところが、まだ戦がたけなわともならないうち、劉繇がにわかに退却を命じた。

太史慈が引き揚げて不満を述べると、劉繇は苦々しげに、孫策軍に本城の霊陵城を攻め取られたことを話す。

霊陵城については先の第55話(03)を参照。

孫策は一部の兵を曲阿(きょくあ)へ向け、その方面から劉繇の本城である霊陵城の後ろを突かせていた。これには周瑜(しゅうゆ)と同郷の陳武(ちんぶ)の活躍もあった。

劉繇は狼狽(ろうばい)して一夜のうちに陣を引き払い、秣陵(まつりょう)へ退こうとする。しかし、途中で露営していたところを孫策軍に夜襲され、ここでも散々に打ちのめされた。

(02)薛礼城(せつれいじょう)

敗走した劉繇軍の一部は薛礼城へ逃げ込み、孫策は城を包囲する。だが、この間に劉繇が手薄の牛渚(ぎゅうしょ)へ攻め寄せたとの知らせを受けると、ただちに駒を返して劉繇軍の側面を突く。

ここで出てきた薛礼城がよくわからず。どこにあった城なのだろうか?

なお『三国志演義(1)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第15回)では、陳武が内応して周瑜を曲阿へ迎え入れた後、劉繇が太史慈に「速やかに秣陵へ行き、薛礼や笮融(さくゆう)の軍勢と合流して急ぎ曲阿の救援に向かうのだ」と言っていた。ここは人名の薛礼を地名と勘違いされた可能性があるのかも? 吉川『三国志』では薛礼を人名として扱っていないように見えるので……。

(03)牛渚

孫策は捨て鉢になってかかってきた于糜(うび。于麋)を生け捕り、鞍(くら)の脇に抱え悠々と引き揚げる。それを見た劉繇配下の樊能(はんのう)が追ってくると、抱えていた于糜の体を締めつけて殺し、その死体を投げつけた。

孫策は落馬した樊能を馬上から槍(やり)で突き殺すと、于糜の胸板にもとどめを与え、さっさと味方の陣へ入る。

最後の一策として試みた奇襲が惨敗に帰し、頼みとする于糜と樊能の二将まで目の前で殺されてしまった。気落ちした劉繇はわずかな残兵を連れ、荊州の劉表のもとへ落ちていった。

それでも大藩たる劉繇の部下には降伏を潔しとせず、秣陵城を目指して落ち合い、そこで玉砕を誓った者もいた。張英(ちょうえい)や陳横(ちんおう)などの輩(ともがら)だった。長江(ちょうこう)沿岸の敗残兵を掃討しながら、やがて孫策は秣陵に迫る。

(04)秣陵城

張英は攻め寄せた敵勢の中に孫策の姿を見つけると、あわただしく一矢を放つ。矢は狙いたがわず左腿(ひだりもも)に当たった。落馬した孫策は起き上がらず、大勢の兵が担ぎ上げて味方の中に隠れ込む。

井波『三国志演義(1)』(第15回)では「城から不意に闇矢が放たれ……」とだけあり、この矢を放ったのは張英だと断定していない。

その夜、孫策軍は急に5里ほど陣を退き、随所に弔旗を垂らしていた。陣中では、孫策が急所に受けた矢傷のため息を引き取った、などとささやかれ、城中から探りに来ていた細作(さいさく。間者)はさっそく張英に知らせた。

念のため陳横も物見を放つと、物見はその朝、付近の部落民が恐ろしく頑丈な柩(ひつぎ)を、大勢で重そうに陣門に担ぎ込んでいくのを見た。この報告を受けた張英と陳横は孫策の死を確信する。

(05)秣陵の郊外

ある夜、孫策の葬列が出たことを知った張英と陳横は、突如として烽火(のろし)を打ち上げ葬列を不意討ちした。

ところが孫策は生きており、整然たる陣容の前にたちまち撃退された。しかも、ほとんど空にしてきた秣陵城がすでに攻め落とされているという。

張英は孫策の姿を見て逃げかけたが、追いつかれ討ち取られる。同じく陳横も討たれた。

陳横は孫策に討たれたのかはっきりしない。井波『三国志演義(1)』(第15回)では、張英は陳武の槍で、陳横は蔣欽(しょうきん)の矢で、それぞれ討ち取られたとある。また薛礼は乱軍の中で命を落としたともあった。

(06)秣陵城

こうして孫策は秣陵城に入ると、即日法令を出して人民を安んずる。そして秣陵に味方の一部を残すと、ただちに涇県(けいけん)へ攻め入った。

このころから孫策の勇名は一時に高くなり、人々はみな江東(こうとう)の孫郎(そんろう)とたたえたり、小覇王と唱えて敬い恐れた。

この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「覇王は、楚漢(そかん)戦争において高祖(こうそ)劉邦(りゅうほう)と争い、西楚(せいそ)の覇王と称された項羽(こうう)のこと。(小覇王は)出身をともにする覇王項羽に次ぐものという意味」とある。

管理人「かぶらがわ」より

快進撃を続け、劉繇を荊州へ敗走させた孫策。孫策自身がかなりのすご腕なので、戦場で彼に近づくのは命がけですね。

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