成公英(せいこうえい)

【姓名】 成公英(せいこうえい) 【あざな】 ?

【原籍】 金城郡(きんじょうぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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旧主への真心を曹操(そうそう)も評価

父母ともに不詳。

中平(ちゅうへい)年間(184~189年)の末、成公英は韓遂(かんすい)の腹心となる。

212年?、韓遂が曹操配下の夏侯淵(かこうえん)に敗れて湟中(こうちゅう)へ逃げ帰った際、その配下は四散した。だが、成公英だけは韓遂に付き従ったという。

韓遂が湟中にいたとき、婿の閻行(えんこう)は韓遂を殺害したうえで曹操に降伏しようとする。

韓遂は閻行の夜襲を退けると、成公英の進言に従い羌族(きょうぞく)を頼った。このとき数千の男女が随行したが、韓遂は以前から恩を売っていたため羌族も彼らを保護する。

やがて夏侯淵が帰還する際、閻行を後に留め置く。

そこで韓遂は数万の羌族とともに閻行を攻めようとしたが、このころ亡くなり、残された成公英は曹操に降伏した。

韓遂の死については異説もある。

曹操は成公英に会うと、大いに喜んで軍師とし、列侯(れっこう)に封ずる。

後に曹操にお供して狩猟に出かけた折、3頭の鹿が目の前を走り過ぎた。曹操の命を受けた成公英が矢を放つと三発三中、みな弦音とともに倒れる。

曹操は手を叩きながら成公英に尋ねた。

「きみは韓文約(かんぶんやく。文約は韓遂のあざな)に節義を尽くしたと言ってよいが、私に対してはどうかな?」

すると成公英は下馬し、ひざまずいて答えた。

「殿を欺くわけにはまいりません。もし旧主が健在だったなら、私はここへ来ませんでした」

そう言うと、成公英は涙にむせぶ。

曹操はその真心を褒め、彼を敬愛するようになった。

220年、河西(かせい)で張進(ちょうしん)・黄華(こうか)・麴演(きくえん)らの反乱が起こると、曹丕(そうひ)は詔(みことのり)を下して成公英を遣わす。

成公英は涼州刺史(りょうしゅうしし。221?~223年)の張既(ちょうき)を補佐して隴右(ろうゆう。隴山以西の地域)の平定にあたったが、その間に病死(時期は不明)した。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・張既伝)とその裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』および魚豢の『典略(てんりゃく)』によるもの。

また『三国志』(魏書・王脩伝〈おうしゅうでん〉)の裴松之注に引く同じく『魏略』によると――。

『魏略』では、脂習(ししゅう)・王脩・龐淯(ほういく)・文聘(ぶんぺい)・成公英・郭憲(かくけん)・単固(ぜんこ)の7人をまとめて「純固伝(じゅんこでん)」としているそうです。

韓遂の立ち回りの善しあしは別にしても、あくまで主人に忠義を尽くした成公英の態度は立派。ちなみに彼は姓が成公で、名が英なのだとか。

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