徐盛(じょせい)

【姓名】 徐盛(じょせい) 【あざな】 文嚮(ぶんきょう)

【原籍】 琅邪郡(ろうやぐん)莒県(きょけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第135話で初登場。
【演義】 第038回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・徐盛伝』あり。

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疑城の奇計をもって魏(ぎ)の大軍を退ける

父母ともに不詳。息子の徐楷(じょかい)は跡継ぎ。

徐盛は世の混乱を避けて呉郡へ移り、勇敢で気概のあることで知られた。

200年、孫策(そんさく)が急死し弟の孫権(そんけん)が跡を継ぐと、徐盛は別部司馬(べつぶしば)として500人の兵士を授かり、柴桑県長(さいそうけんのちょう)を兼ねつつ劉表(りゅうひょう)配下の黄祖(こうそ)の侵出を防ぐ。

黄祖の息子の黄射(こうしゃ)が数千人をひきい長江(ちょうこう)から攻め下った際、徐盛のもとには200人に満たない数の軍吏と兵士しかいなかった。それでも彼は堂々と敵を迎え撃ち、黄射の軍吏や兵士を1千余人も負傷させたうえ、城から打って出て大破した。

これ以来、黄射は鳴りを潜め、二度と侵攻してこなかったため、徐盛は功により校尉(こうい)に昇進し蕪湖県令(ぶこけんのれい)を兼ねることになった。

その後、徐盛は臨城(りんじょう)の南に住む山越(さんえつ。江南〈こうなん〉に住んでいた異民族)の不服従民の討伐でも功を立て、中郎将(ちゅうろうしょう)に転じ兵士の監督と選抜をつかさどる。

216年、曹操(そうそう)が濡須(じゅしゅ)へ進軍してくると、徐盛も孫権に付き従い防戦にあたった。このとき横江(おうこう)で曹操軍を迎撃したが、徐盛の蒙衝(もうしょう。突撃艦。艨艟)が暴風に遭い敵側の岸辺に座礁する。

諸将は恐れおののき、誰も船から出ようとしなかったが、徐盛だけは兵士をひきいて岸に上がり、曹操軍に突撃。その結果、敵側は多数の死傷者を出し退却した。徐盛は暴風が収まると無事に帰還したので、孫権は彼の勇敢さを大いにたたえた。

221年、孫権が魏の曹丕(そうひ)から呉王に封ぜられることになり、魏使の邢貞(けいてい)を都の郊外の都亭(とてい)で出迎える。

しかし、邢貞の態度に驕(おご)りが見られたため張昭(ちょうしょう)は腹を立て、徐盛もまた臣下としてふがいなさを恥じ、涙を流し続けた。

邢貞は張昭や徐盛の様子を聞くと同行者らに、「江東(こうとう)の宰相や部将がこのようでは、呉がいつまでも魏の下についていることはあるまい」と述べたという。

のち徐盛は建武将軍(けんぶしょうぐん)に昇進し都亭侯に封ぜられ、廬江太守(ろこうのたいしゅ)を兼ねたうえ臨城県を封邑(ほうゆう)として賜る。

この年、蜀(しょく)の劉備(りゅうび)が西陵(せいりょう)まで侵出すると、徐盛は攻撃を加え敵の軍営を奪い、軍勢を向けるごとに手柄を立てた。

翌222年、魏の曹休(そうきゅう)が洞口(どうこう)まで侵出すると、徐盛は呂範(りょはん)や全琮(ぜんそう)とともに長江を渡り敵軍を食い止める。

暴風により味方の水夫の多くを失ったものの、徐盛は残兵をまとめ、長江を挟んで曹休と対峙(たいじ)した。

徐盛が寡兵をもってよく敵の大軍を防いだので、曹休は大きな戦果を上げられないまま引き揚げる。徐盛は安東将軍(あんとうしょうぐん)に昇進し蕪湖侯に爵位が進んだ。

224年、魏の曹丕が大軍をひきいて親征し、長江を渡ろうともくろむ。このとき徐盛の献策が容れられ、建業(けんぎょう)から長江沿いの数百里(り)に偽の城壁(疑城)が築かれる。

曹丕は広陵(こうりょう)まで来たところで偽の城壁に驚き、長江の水かさも増えてきたためそのまま軍勢を引いてしまった。

その後、徐盛は黄武(こうぶ)年間(222~229年)に死去し、息子の徐楷が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

徐盛は孫権配下の将軍の中でも勇敢さが際立っていました。彼は少ない兵力をうまく用いることに長けていたようです。

しかし、いくら巧妙な疑城を築いたのだとしても、それを見てあっさり引き揚げた曹丕のほうもどうなのでしょうね?
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人物データ 呉の重臣
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