【姓名】 虞忠(ぐちゅう) 【あざな】 世方(せいほう)
【原籍】 会稽郡(かいけいぐん)余姚県(よようけん)
【生没】 ?~280年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・虞翻伝(ぐはんでん)』に付された「虞忠伝」あり。
晋(しん)への降伏を拒み、宜都城(ぎとじょう)とともに呉に殉ずる
父は虞翻だが、母は不詳。虞忠自身は五男。虞汜(ぐし。四男)は兄で、虞聳(ぐしょう。六男)と虞昺(ぐへい。八男)は弟。合わせて11人兄弟だったという。虞譚(ぐたん)という息子がいた。
虞忠は節操と実行力があり、優れた人物を見抜く能力も備えていた。陸機(りくき)を少年のころに見いだし、魏遷(ぎせん)を無名のころに評価したが、やがてふたりとも頭角を現し、名を知られるようになった。
また、同県出身の王岐(おうき)は後ろ盾のない家柄だったが、虞忠は彼とも親しくする。後に王岐は昇進を重ねて宜都太守(ぎとたいしゅ)となり、虞忠がその跡を引き継いで宜都太守となった。
279年、晋が呉へ大攻勢を仕掛けると、虞忠は夷道監(いどうかん)の陸晏(りくあん)や、その弟で中夏督(ちゅうかとく)の陸景(りくけい)とともに宜都に立て籠もる。
そして翌280年、虞忠は城の陥落とともに戦死した。
管理人「かぶらがわ」より
本伝には、虞忠が宜都太守になったという一文しかないため、その裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く虞預(ぐよ)の『会稽典録(かいけいてんろく)』から補いました。
そのため詳しい事績はわかりませんでしたが、虞忠は呉の滅亡時に奮戦した人物のひとりと言えますね。
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