孟獲(もうかく)

【姓名】 孟獲(もうかく) 【あざな】 ?

【原籍】 益州郡(えきしゅうぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第259話で初登場。
【演義】 第085回で初登場。
【正史】 登場人物。

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益州南部の反乱に加わるも、諸葛亮(しょかつりょう)の南征を受けて心服

父母ともに不詳。

223年4月、蜀(しょく)の劉備(りゅうび)が崩御(ほうぎょ)し、5月には息子の劉禅(りゅうぜん)が跡を継いだ。ほどなく蜀の牂牁太守(そうかたいしゅ)の朱褒(しゅほう)が、郡を挙げて反乱を起こす。

また、これより先には益州郡で豪族の雍闓(ようかい)の反乱があり、益州太守(えきしゅうたいしゅ)の張裔(ちょうえい)を呉(ご)へ追放。郡を占拠し蜀に服従しなかった。

これに呼応する形で、越嶲(えっすい)の蛮族の王である高定(こうてい)も蜀に背く。孟獲は西南夷(せいなんい)の首長として声望が高かったが、雍闓から手紙を受け取ると反乱に加わった。

翌224年春、蜀の劉禅は農耕に努めて穀物の増産を図ることにし、越嶲郡への通路にあたる関門を閉ざし民を休息させた。

翌225年3月、蜀の丞相(じょうしょう)の諸葛亮が南方の4郡(益州・永昌〈えいしょう〉・牂牁・越嶲)を討伐すべく成都(せいと)から出撃。蜀軍は南中(なんちゅう)への途上で勝利を重ね、やがて孟獲も諸葛亮に心服した。

同年12月、諸葛亮が南征を終え成都に帰還。劉禅は益州郡を建寧郡(けんねいぐん)と改め、建寧と永昌の両郡から一部を分割して雲南郡(うんなんぐん)を設置。さらに建寧と牂牁の両郡から一部を分割し興古郡(こうこぐん)を設置した。

その後、孟獲は劉禅に仕えて御史中丞(ぎょしちゅうじょう)を務めたともいうが、蜀に帰順したあとの事績はイマイチはっきりしない。

管理人「かぶらがわ」より

正史『三国志』および范曄(はんよう)の『後漢書(ごかんじょ)』には孟獲の伝が立てられていません。

意外にも彼は正史『三国志』の本文に登場しておらず、『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・諸葛亮伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く習鑿歯(しゅうさくし)の『漢晋春秋(かんしんしゅんじゅう)』と『三国志』(蜀書・馬良伝〈ばりょうでん〉)の裴松之注に引く習鑿歯の『襄陽記(じょうようき)』に名が見える程度なのです。

このうち『漢晋春秋』には、孟獲が諸葛亮に心服するまでの過程が見えました。

諸葛亮が懸賞金をかけて孟獲を捕らえると、彼に蜀の軍営を見せ感想を尋ねます。すると孟獲はこう答えました。

「この前は内情がわからなかったため敗れてしまったが、この程度のものなら、次は間違いなく勝つことができる」

諸葛亮は笑って孟獲を釈放し、再び戦わせます。このようにして諸葛亮は7度釈放し7度捕らえたものの、なおも釈放しようとしました。

しかし孟獲は去ろうとせず、諸葛亮に言います。

「殿は天のご威光をお持ちです。われら南人が二度と背くことはありません」

出ました「七縦七擒(しちしょうしちきん)」。それとも「七擒七縦」というべきか。いずれにせよ陳寿(ちんじゅ)は本文に載せていませんし、本当のところどうだったのでしょう?

「七縦七擒」だと、孟獲に軍営を見せたあとの「放す(縦)」からカウントし始め、捕らえる(擒)、放す(縦)、捕らえる(擒)…と、それぞれ7回ずつ繰り返せば、最後は「捕らえる(擒)」で終わります。

「七擒七縦」だと、懸賞金をかけての「捕らえる(擒)」からカウントし始め、放す(縦)、捕らえる(擒)、放す(縦)と繰り返していくと、最後は「放す(縦)」で終わります。

この場合、最後は「放そうとしたが(孟獲が)去らなかった」ということになると思うのですけど、このへんもどうなのでしょう。最後は「放そうとしたが(孟獲が)去らなかった」ではなく、「放したが(孟獲が)去らなかった」と解釈することもできるのか?

吉川『三国志』や『三国志演義』では、諸葛亮の南征時にいろいろなおもしろキャラ(木鹿大王〈ぼくろくだいおう〉とか兀突骨〈ごつとつこつ〉など)が登場しています。やはり、こちらのほうが話として楽しめるように作ってありますね。
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人物データ 群雄諸侯
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