【姓名】 曹均(そうきん) 【あざな】 ?
【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)
【生没】 ?~219年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・樊安公均伝(はんあんこうきんでん)』あり。
魏(ぎ)の曹操(そうそう)の息子で曹丕(そうひ)の異母弟、樊安公
父は曹操、母は周氏(しゅうし)。
息子の曹抗(そうこう)は跡継ぎ。同じく息子の曹琬(そうえん)は曹昂(そうこう)の跡を継ぎ、曹敏(そうびん)は曹矩(そうく)の跡を継いだ。
曹均は、叔父で薊恭公(けいきょうこう)の曹彬(そうひん)の跡を継いだ。217年に樊侯(はんこう)に封ぜられたが219年に死去し、息子の曹抗が跡を継いだ。
221年、亡き曹均の爵位がさかのぼって樊公に進められ、安公の諡号(しごう)を追贈された。
管理人「かぶらがわ」より
登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。
『三国志』(魏書・張繡伝〈ちょうしゅうでん〉)には、「200年に張繡が賈詡(かく)の計に従って再び曹操に降伏した際、曹操は張繡の手を取って喜び、歓迎の宴会を催したうえ、張繡の娘を息子の曹均の妻に迎え、張繡に揚武将軍(ようぶしょうぐん)の位を授けた」とありました。
ですが、ここは引っかかるところ。197年に曹操の張繡討伐に付き従って戦死した曹昂には息子がなく、ずっと後の222年になり、曹均の息子の曹琬が曹昂の跡継ぎとして立てられているのです。
曹昂にとっては敵(かたき)とも言えるのが張繡。しかし、張繡の娘が曹均の妻なら、曹琬は彼女が生んだ息子ということもあり得えます。
もしそのような背景があれば、曹昂の跡継ぎとして立てられるものでしょうか? 曹琬を生んだのは曹均の別の妻かもしれません。
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