王昶(おうちょう)

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【姓名】 王昶(おうちょう) 【あざな】 文舒(ぶんしょ)

【原籍】 太原郡(たいげんぐん)晋陽県(しんようけん)

【生没】 ?~259年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第108回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・王昶伝』あり。

文武にわたる功績を上げ三公に昇る。京陵穆侯(けいりょうのぼくこう)

父は王沢(おうたく)だが、母は不詳。王柔(おうじゅう)は伯父。兄がいたものの名は出てこない。息子の王渾(おうこん)は跡継ぎで、王深(おうしん)と王湛(おうたん)も同じく息子。

王昶は若いころから同郡の王淩(おうりょう)とともに名を知られ、年長の彼に兄事した。

曹丕(そうひ)が「王太子(おうたいし)」として東宮(とうぐう)にいたとき(217~220年)、王昶は「太子文学(たいしぶんがく)」となり、のち「太子中庶子(たいしちゅうしょし)」に昇進。

220年、曹丕が帝位に即くと「散騎侍郎(さんきじろう)」に移り、洛陽(らくよう)の「典農(てんのう)」に転ずる。

このころ畿内(きない)では木々が生い茂り林となっていたが、王昶は民とともに広大な荒れ地を開墾した。「兗州刺史(えんしゅうのしし)」に昇進。

226年、曹叡(そうえい)が帝位を継ぐと、王昶は「揚烈将軍(ようれつしょうぐん)」の官位を加えられ「関内侯(かんだいこう)」に封ぜられる。

王昶は外の任務にありながらも朝廷のことを気にかけ、過酷で細かい魏の法制を改めるべきだと考えた。そこで『治論(ちろん)』を著し、古代の制度に沿いつつ現状にも合うようにした論文20余編を書く。

また『兵書(へいしょ)』10余編を著し奇策と正攻法について述べ、これらを青龍(せいりょう)年間(233~237年)に奉呈した。

王昶は兄の子やわが子に名やあざなを付けるとき、みな謙虚と質実の意を持つ文字を選び、自分の気持ちを示した。さらに彼らのために長文を書き、人の子として踏むべき道などを説いて戒めた。

236年、詔(みことのり)が下され、卿校(けいこう。大臣と校尉〈こうい〉)以上の官位にある者は品行が修まった有能の士をひとりずつ推挙することになった。このとき王昶は太尉(たいい)の司馬懿(しばい)に推挙された。

曹芳(そうほう)の正始(せいし)年間(240~249年)になると、王昶は徐州(じょしゅう)へ転任し「武観亭侯(ぶかんていこう)」に爵位が進む。やがて「征南将軍(せいなんしょうぐん)・仮節(かせつ)・都督荊豫諸軍事(ととくけいよしょぐんじ)」に昇進。

王昶は宛(えん)に駐屯したが、ここは襄陽(じょうよう)から300里(り)余りも離れているうえ、諸軍は散在し軍船が宣池(せんち)にある状況を案じ、これでは危急があっても駆けつけることができないと考えた。

そこで上奏して新野(しんや)に移駐し、三州口(さんしゅうこう)で水軍を訓練する。農業にも注力して開墾に努めた結果、倉庫に十分な穀物が蓄えられるようになった。

249年、太傅(たいふ)の司馬懿が曹爽(そうそう)らを誅滅した後、上奏を行い、広く大臣の得失についての下問があった。

このとき王昶は5か条の政策を述べ、学業の振興、勤務評定の導入、一定の在任期間の確保、無駄な官職の廃止、奢侈(しゃし)の根絶を求める。これらの意見は詔により称賛され、官僚の勤務評定の方法を定めることになった。

翌250年、王昶は上奏文を奉り、呉(ご)において良臣が放逐され、嫡子(孫和〈そんか〉)と庶子(孫霸〈そんは〉)との抗争が起きていることを指摘。隙に乗じて呉と蜀(しょく)を制圧すべきだと述べる。

同年12月、曹芳は新城太守(しんじょうたいしゅ)の州泰(しゅうたい)に巫(ふ)・秭帰(しき)・房陵(ぼうりょう)を攻めさせ、荊州刺史の王基(おうき)を夷陵(いりょう)へ、王昶を江陵(こうりょう)へ、それぞれ向かわせた。

これに対して呉は、江陵以北の地域を水浸しにする作戦を採る。王昶は両岸に竹の縄で橋を作り、川を渡って呉軍に攻めかかった。

呉軍は南岸へ引き、7つの道から一斉に反撃。王昶が弩(ど)で応戦すると、呉の施績(しせき。朱績〈しゅせき〉)は夜に紛れ江陵城へ逃げ込む。王昶は追撃を加えて数百人を討ち取った。

さらに王昶は、敵を平地へ誘い出そうと考える。そこで5つの軍が広い街道を通り帰還するように見せかけて呉軍を喜ばせたうえ、戦利品の鎧(よろい)や兜首(かぶとくび)を結びつけた馬を用意し、これに江陵城の周囲を駆け回らせ怒りを煽(あお)る。こうして施績が出てくると、伏兵を設けて撃破した。

呉将の鍾離茂(しょうりぼう)と許旻(きょびん)を討ち取り、多くの鹵獲品(ろかくひん)を得て凱旋(がいせん)すると、王昶は「征南大将軍(せいなんだいしょうぐん)・儀同三司(ぎどうさんし。三公待遇)」に昇進し「京陵侯」に爵位が進む。

252年、王昶は詔を受け、征東将軍(せいとうしょうぐん)の胡遵(こじゅん)や鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)の毌丘倹(かんきゅうけん)らとともに呉の討伐に向かう。

しかし、呉の諸葛恪(しょかつかく)と東関(とうかん)で戦い、胡遵や諸葛誕(しょかつたん)の軍が大敗。このとき王昶は江陵を、毌丘倹は武昌(ぶしょう)を、それぞれ攻めていたが、東関の敗戦を聞くと屯営を焼き逃走した。ただ、司馬昭(しばしょう)が諸軍の監督者として自らの責任を認めたため、王昶らが罪に問われることはなかった。

255年、毌丘倹と文欽(ぶんきん)が淮南(わいなん)で反乱を起こした際、王昶は兵をひきいて功を立てたため、ふたりの息子が「亭侯」と「関内侯」に封ぜられる。王昶自身も「驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)」に昇進した。

257年、諸葛誕が寿春(じゅしゅん)で謀反を起こすと、王昶は夾石(きょうせき)に拠り江陵の呉軍に圧力をかけ、呉の施績や全熙(ぜんき)の東進を抑えた。

翌258年、諸葛誕が誅殺された後、詔により1千戸の加増を受け、以前と合わせて封邑(ほうゆう)は4700戸となる。

同年8月、「司空(しくう)」に昇進したが、「持節(じせつ)」と「都督」はもとの通りとされた。

翌259年、王昶が死去すると「穆侯」と諡(おくりな)され、息子の王渾が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

王昶は文武の才を兼ね備えた人物だったと思いますが、息子や甥たちを戒めた書には、ためになる教えが満載でした。党派を作らない、満足することを知る、自慢をしない、を始め、いい加減に他人を非難したり称賛したりしないなど、現代にも通ずるものが多いと感じます。

「誰かが自分のことを非難した場合も引いてわが身を反省すべきであり、もし自分に非難されるような行いがあったならその言葉は当たっていることになるし、仮に自分に非難されるような行いがなかったならその言葉はでたらめということになる。当たっていれば非難した者を恨む理由はないし、でたらめならわが身に害はなく、仕返しをする必要はない」と。

ただ、王昶が何人かの友人の名を挙げてそれぞれの欠点に触れたことについては、裴松之(はいしょうし)が批判していました。

もちろん友人に対する態度としては賛成できませんけど……。この戒めは、そもそも内輪向けだったと思われます。正史に収録されたということは、これが広く世間に伝わってしまったのでしょうね。

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