王基(おうき)

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【姓名】 王基(おうき) 【あざな】 伯輿(はくよ)

【原籍】 東萊郡(とうらいぐん)曲城県(きょくじょうけん)

【生没】 ?~261年(?歳)

【吉川】 第214話で初登場。
【演義】 第069回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・王基伝』あり。

学問を土台にした的確な情勢判断。東武景侯(とうぶのけいこう)

父は王豹(おうほう)だが、母は不詳。王翁(おうおう)は叔父。息子の王徽(おうき)は跡継ぎ。

王基は若くして父を亡くし、叔父の王翁に育てられる。王翁にとてもかわいがられ、王基も孝行をたたえられたという。

王基は17歳で郡吏となったものの、仕事が合わず辞職し、琅邪(ろうや)へ遊学した。

曹丕(そうひ)の黄初(こうしょ)年間(220~226年)、王基は孝廉(こうれん)に推挙され「郎中(ろうちゅう)」に任ぜられる。

このころ青州(せいしゅう)は落ち着いたばかりだったが、刺史(しし)の王淩(おうりょう)は特に王基を請い受け「別駕(べつが)」とした。のち中央へ召されて「秘書郎(ひしょろう)」となるも、王淩は再び王基を青州へ帰任させるよう要請した。

しばらくして司徒(しと。226~228年)の王朗(おうろう)が王基を召すも、王淩は手放そうとしない。王朗は文書で州を弾劾したが、それでも王淩は応じなかった。

やがて大将軍(だいしょうぐん。230~235年)の司馬懿(しばい)が王基を召し寄せたが、彼は到着前に「中書侍郎(ちゅうしょじろう)」に抜てきされた。

のち曹叡(そうえい)が盛んに宮殿を造営し民が疲弊した際、王基は上奏文を奉って諫める。

また、散騎常侍(さんきじょうじ)の王粛(おうしゅく)は諸経伝の注釈を著し、朝儀について論定し、鄭玄(ていげん)の旧説を改めようとしていた。しかし、王基は鄭玄の説を保持し続けて王粛に対抗した。

王基は「安平太守(あんぺいのたいしゅ)」に昇進したが、公的な事件により辞職。次いで大将軍(238~249年)の曹爽(そうそう)の要請で「従事中郎(じゅうじちゅうろう)」を務め、地方へ出て「安豊太守(あんぽうのたいしゅ)」となった。

郡は呉(ご)と境を接していたが、彼が清潔かつ厳格な政治を行い、威厳と恩恵を示して防備を整えたため、あえて敵は侵犯しなかった。王基は「討寇将軍(とうこうしょうぐん)」の官位を加えられる。

あるとき呉が建業(けんぎょう)に大軍を集め、揚州(ようしゅう)を攻めると宣伝したので、揚州刺史の諸葛誕(しょかつたん)は王基の見立てを聴く。

王基は呉の内情を分析してみせ、孫権(そんけん)が出撃することはないと断ずる。結局、孫権も動くことはできなかった。

このころ曹爽が実権を握っており、次第に教化が衰微していった。王基は『時要論(じようろん)』を著し現状を厳しく非難した。

のち病気のため官を離れ、平民から改めて「河南尹(かなんのいん)」として起用されたが、拝命前に曹爽が処刑される(249年のこと)。王基は以前、曹爽の属官だったため、先例に従い免職となった。

それでも同年(249年)中に「尚書(しょうしょ)」に任ぜられ、地方へ出て「荊州刺史(けいしゅうのしし)」となり「揚烈将軍(ようれつしょうぐん)」の官位を加えられた。

翌250年、征南将軍(せいなんしょうぐん)の王昶(おうちょう)に従い呉を討伐。王基は別将として夷陵(いりょう)の歩協(ほきょう)を攻めたが、敵は城門を閉じて守りを固める。

そこで攻め続ける姿勢を見せつつ、一方で兵を分け雄父(ゆうふ)の邸閣(食糧貯蔵庫)を奪取し、米30余万斛(ごく)を獲得。さらに呉の安北将軍(あんぼくしょうぐん)の譚正(たんせい)を捕らえ、数千の降伏者を受け入れた。

これらの降伏者を移住させ夷陵県を新設したところ、王基は「関内侯(かんだいこう)」に封ぜられた。

王基は上奏を行い上昶(じょうちょう)に城を築き、江夏(こうか)の役所を移し夏口(かこう)へ圧力をかける。以来、呉軍は軽々しく長江(ちょうこう)を越えてくることがなくなったという。彼は制度を明らかにし、軍や農業を整え、学校も建てたりしたので、南方の人々からたたえられた。

朝廷で呉討伐の論議が起こると、詔(みことのり)を受けて王基が意見を述べる。彼は万全の態勢を整えたうえで軍を動かすよう説き、この時は出兵が見送られた。

翌251年、司馬師(しばし)が政治を取り仕切ると、王基は文書をもって戒める。この進言が容れられ、許允(きょいん)・傅嘏(ふか)・袁侃(えんかん)・崔賛(さいさん)といった正直(せいちょく)の士が用いられることになった。

254年、曹髦(そうぼう)が帝位を継ぐと、王基は「常楽亭侯(じょうらくていこう)」に爵位が進む。

翌255年、毌丘倹(かんきゅうけん)と文欽(ぶんきん)が淮南(わいなん)で反乱を起こした際、王基は「行監軍(こうかんぐん)・仮節(かせつ)」として許昌(きょしょう)の軍をひきいた。

王基は司馬師の許しを得て全軍の先鋒を務め、たびたび速やかな進軍を求める。そして毌丘倹らより先に南頓(なんとん)を押さえた。毌丘倹らも項(こう)を出て南頓を目指したが、王基の到着を聞くと引き返した。

このころ兗州刺史(えんしゅうしし)のトウ艾(とうがい。登+阝)が楽嘉(らくか)に駐屯しており、毌丘倹は文欽に襲撃を命ずる。王基は敵の勢力が二分されたと知るや、項に進軍して毌丘倹を撃破した。

文欽が呉へ逃走し反乱が治まった後、王基は「鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)・都督豫州諸軍事(ととくよしゅうしょぐんじ)」に昇進し「豫州刺史」を兼ねる。爵位も「安楽郷侯(あんらくきょうこう)」に進む。

また、彼の上奏により封邑(ほうゆう)から200戸が分割され、叔父の王翁の息子である王喬(おうきょう)が「関内侯」に封ぜられた。これは、叔父に養育された恩に報いたいという彼の意思が、特に詔で許可されたものだった。

257年、諸葛誕が寿春(じゅしゅん)で謀反を起こすと、王基は本官のまま「鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)・都督揚豫諸軍事」を兼ねる。

大将軍の司馬昭(しばしょう)は進軍して丘頭(きゅうとう)に駐屯し、部隊を分け寿春を包囲させたが、王基は城東と城南の2軍を指揮した。そのうち城内の兵糧が尽きると、包囲陣は昼夜にわたる攻撃を受け、そのつど王基が撃退した。

さらに司馬昭は諸将に軽装の兵を付け、これを敵地深くへ進入させて唐咨(とうし)らの子弟を招き、呉の隙を突きたいと考える。

しかし、王基が呉の諸葛恪(しょかつかく)や蜀(しょく)の姜維(きょうい)の失敗を例に挙げ、これ以上の戦果を求めないよう諫めたところ、司馬昭も計画を中止した。

淮南が平定されたばかりだったため、王基は「征東将軍(せいとうしょうぐん)・都督揚州諸軍事」に転じ「東武侯」に爵位を進められる。

すると王基は上奏文を奉って固辞し、自分を補佐してくれた者たちに功を譲ろうとした。このため、彼の配下にあった「長史(ちょうし)」や「司馬(しば)」などの7人がみな「侯」に封ぜられた。

この年、王基の母が死去したものの、詔によって訃報は伏せられ、彼の父である王豹の遺骸を迎えて洛陽(らくよう)に合葬された。王豹には「北海太守(ほっかいのたいしゅ)」の官位が追贈された。

259年、王基は「征南将軍・都督荊州諸軍事」に転ずる。

翌260年、曹奐(そうかん)が帝位を継ぐと王基は1千戸の加増を受け、以前と合わせて封邑は5700戸となった。これに前後して息子ふたりが「亭侯」と「関内侯」に封ぜられた。

翌261年、襄陽太守(じょうようたいしゅ)の胡烈(これつ)が上奏を行い、呉のトウ由(とうゆう。登+阝)や李光(りこう)らが帰順を願い出ていると報告。これを受け、王基は諸軍を配置するよう詔を受けたものの、トウ由らが偽りの降伏で魏軍を誘い込むつもりだとみる。

司馬昭は王基の進言を聞き、すでに出撃させた軍を停止させた後、戦闘態勢を解く。結局、トウ由らが降伏してくることはなかった。

この年、王基が死去すると「司空(しくう)」の官位を追贈され、「景侯」と諡(おくりな)された。息子の王徽が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

『三国志』(魏書・管輅伝〈かんろでん〉)や裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『管輅別伝』には王基が絡んだ話も見えました。王基も若いころから『易』に興味を持っており、管輅からいろいろ教わったそうです。

ですが、管輅の言葉の細部まで理解することはできませんでした。そこで、こうしたことが理解できる能力は天から授かるもので、人の努力ではどうすることもできないと考えます。こうして『周易(しゅうえき)』をしまい込むと、もう卜筮(ぼくぜい。占い)を学ぼうとはしなかったのだと。

王基は琅邪へ遊学した経験がありますが、易を学ぼうとするくらいなので、その学識も相当なものだったのでしょう。そういう下地のある人が「将軍」として現場で指揮を執っているわけですから、彼を相手にしたほうは大変だったでしょうね。

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