曹幹(そうかん)

【姓名】 曹幹(そうかん) 【あざな】 ?

【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)

【生没】 ?~261年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・趙王幹伝(ちょうおうかんでん)』あり。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

魏(ぎ)の曹操(そうそう)の息子で曹丕(そうひ)の異母弟、趙王

父は曹操、母は王氏(おうし)。

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によると「一名を良(りょう。曹良)ともいう」。また、「王氏は養母で、生母は陳氏(ちんし)」ともある。

曹幹は215年に高平亭侯(こうへいていこう)に封ぜられた。217年に頼亭侯(らいていこう)に移封され、同年に弘農侯(こうのうこう)に移封された。221年に燕公(えんこう)に移封され、翌222年に河間王(かかんおう)に移封された。

224年に楽城県王(らくじょうけんおう)に移封され、226年に鉅鹿王(きょろくおう)に移封された。232年に趙王に移封された。

234年、賓客と勝手に交際した罪を問われたものの、曹叡(そうえい)の詔(みことのり)により過失を許された。

景初(けいしょ)年間(237~239年)・正元(せいげん)年間(254~256年)・景元(けいげん)年間(260~264年)にたびたび加増され、5千戸となった。その後、261年8月に薨去(こうきょ)した。

管理人「かぶらがわ」より

登場箇所が少ないためコメントしにくいです。

本伝によると、「曹幹の母(ここでは王氏のこと)は曹操の寵愛を受けていたうえ、曹丕が世継ぎと定められたことについても尽力した。そのため曹丕は崩ずるにあたり(特にそういった事情について)曹叡に詔を遺した。これを受け、曹叡は曹幹に常に目をかけていた」ということです。

234年の問罪の件については、「曹纂(そうさん)や王喬(おうきょう)らが、九族の集う時節だということで王家(趙王家)に集まったが、その時期に外れていたこともあり、禁令に違反していると属官が上奏したもの」だとありました。曹纂は曹休(そうきゅう)の息子、王喬は王翁(おうおう)の息子です。

また上で挙げた『魏略』によると、「曹良(曹幹)が生まれたあと生母の陳氏は亡くなった。そこで曹操は王氏に彼を養育させた」という。

さらに「曹操は病が重くなったとき、太子(たいし)の曹丕に遺令を与えた。『この子は3歳で母を亡くし、5歳で父をも亡くすことになる。この子を頼むぞ』」ともあり、そのため曹丕はほかの弟たちより曹良(曹幹)に目をかけたのだとか。

この記事はけっこう重要で、曹操が崩じた220年から逆算すると、曹幹が216年に生まれたことや、生母の陳氏が218年に亡くなったことが想定できます。

「曹良(曹幹)は年齢が離れていたので、常に(兄である)曹丕を『お父さん』と呼んでいた」ともいい、「その様子を見て、曹丕はいつも涙を流した」のだと。

曹丕は187年生まれですから、曹良(曹幹)が生まれたときには30歳。曹叡にしても205年(一部で謎が残る)生まれなら、曹良(曹幹)が生まれたときには12歳。親子ほど年齢の離れた兄弟と、年下の叔父だったということになります。

と思っていたらこの『魏略』の記事、まったく本伝と合いません。何と言っても曹幹は「215年に高平亭侯に封ぜられた」とあるのですから――。

私の本伝の解釈に誤りがあるのか? それとも『魏略』のほうがおかしいのか? これだけ記事の内容がブレているのにどういうことなのかわかりませんでした。すっきりしませんね。

スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク
魏の曹氏 人物データ
このページをシェアする
「かぶらがわ」をフォローする
今日も三国志日和 – 史実と創作からみる三国志の世界 –

コメント

タイトルとURLをコピーしました