倉慈(そうじ)

【姓名】 倉慈(そうじ) 【あざな】 孝仁(こうじん)

【原籍】 淮南郡(わいなんぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・倉慈伝』あり。

「燉煌太守(とんこうのたいしゅ)」として西域(せいいき)の異民族を懐ける

父母ともに不詳。

倉慈は初め郡の役人となり、建安(けんあん)年間(196~220年)に曹操(そうそう)が淮南でも屯田を始めたとき「綏集都尉(すいしゅうとい)」に取り立てられた。

のち曹丕(そうひ)の黄初(こうしょ)年間(220~226年)の末に「長安県令(ちょうあんけんのれい)」に転じたが、清廉で無駄遣いを嫌った。官民はそうした彼の態度を恐れながらも敬愛したという。

曹叡(そうえい)の太和(たいわ)年間(227~233年)になると「燉煌太守」に昇進。燉煌郡は西方の国境地帯にあって、動乱のため中央との連絡が完全に途絶しており、20年間も太守が空席となっていた。

地元の豪族が権勢を振るい、それがそのまま習慣になっているありさま。前太守の尹奉(いんほう)らは旧習に従うだけで、これを改革することはなかった。だが倉慈は着任すると、勢力のある者を抑えて貧窮者をいたわり、道理に合った政治を行う。

豪族の田地が有り余っている一方、庶民は錐(きり)を突き立てるほどの田地すら持たない様子を見ると、家ごとの人数に従いきちんと租税を割り当て、本来あるべき公平な状態まで持っていく。

以前、郡下の裁判沙汰がむやみに多く、県では判決を下せなくなり、大勢が郡庁へ集まっていた。倉慈は自ら視察に出向き、罪の軽重を検討。そして死刑以外については、ただ鞭(むち)打ちを加えただけで釈放させる。その結果、裁判を行う必要のある者は、年間10人に満たなくなった。

同じく以前、西域の様々な異民族が来朝して貢納品を届けたいと願っていたころ、それを豪族らが邪魔することが多かった。のちに彼らと交易を行うようになってからも、だましたりいい加減に扱ったりして不明朗なことが多かった。

異民族は不満を感じていたが、倉慈はそのような彼らをいたわる。洛陽(らくよう)へ行こうとする者には通行証を発行してやり、西域へ帰ろうとする者とは公平に取り引きし、郡庁にある現物を使って交易を行い、官吏に命じて護送させた。

こうしたことから郡民や異民族は倉慈を慕い、その徳義や恩恵をたたえるようになる。数年して倉慈が在職のまま死去(時期は不明)すると、官民の悲しむさまは親戚を亡くしたようだった。彼の姿を描き、その遺像を祭る者まであったという。

西域の異民族も倉慈の死を聞くと、戊己校尉(ぼきこうい)や高官の行政府に集まり弔意を表す。中には剣をもって自分の顔を傷つけることで、真心を表そうとする者もあった。また、彼のために祠(ほこら)を建てて共同で祭ったりもした。

『三国志』(魏書・文帝紀〈ぶんていぎ〉)によると、222年、鄯善(ぜんぜん)・亀茲(きゅうじ)・于闐(うてん)といった西域の都市国家の王が、それぞれ使者を遣わして魏に朝貢した際、曹丕は詔(みことのり)を下し、「服属してきた外民族をいたわり、ねぎらうように」と命じた。これ以後、西域との交通がなされるようになり、「戊己校尉」を設置することになったという。

管理人「かぶらがわ」より

当時の西方の国境地帯というのは、中央と連絡すらつかない物騒な所だったのですね。その中でも燉煌郡と言えば西北の果て。もう魏の勢力圏なのかもはっきりしない位置にあります。

倉慈はさぞ誠実に地元民や異民族と接したのでしょうが、よほど人柄が彼らに受け入れられたらしい。こういった地域では、国法を厳格に適用するだけではとても治まらないでしょう。それにしても、地元の豪族の振る舞いがベタだなぁ……。

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