王琰(おうえん)

【姓名】 王琰(おうえん) 【あざな】 ?

【原籍】 馮翊郡(ひょうよくぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第033回で初登場。
【正史】 登場人物。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

高幹(こうかん。袁紹〈えんしょう〉の甥)を仕留めて侯(こう)になったが――

父母ともに不詳。王嘉(おうか)という息子がいた。

205年、いったん降っていた幷州刺史(へいしゅうしし)の高幹が、州を挙げて曹操(そうそう)に背く。これは曹操が烏丸(うがん)討伐に赴いた隙を突いてのことだった。

翌206年、曹操自ら高幹の立て籠もる壺関(こかん)への攻撃に加わると、高幹は関の守りを夏昭(かしょう)と鄧升(とうしょう)に任せ、自身は匈奴(きょうど)の単于(ぜんう。王)のもとへ救援を頼みに行く。

しかし単于に断られてしまい、やむなく荊州(けいしゅう)へ逃げようとする。

このとき上洛都尉(じょうらくとい)を務めていた王琰は、道中の高幹を捕らえて斬り殺し、功により侯に封ぜられた。

その後、王琰は諸郡の太守(たいしゅ)を歴任し、護羌校尉(ごきょうこうい)になったという。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・袁紹伝)に付された「袁尚伝(えんしょうでん)」と、その裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『典略(てんりゃく)』および『三国志』(魏書・常林伝〈じょうりんでん〉)の裴松之注に引く魚豢の『魏略(ぎりゃく)』によるものです。

このうち『典略』によると、「王琰は高幹を捕らえた功により侯に封ぜられたものの、このとき彼の妻は、部屋で大声を上げて泣いた」という。

「それは、夫が富貴を得れば、きっと新たな妾(めかけ)を入れ、自分への愛が奪われると考えたからだった」とも。王琰の人柄がうかがえる話ですね。

『魏略』のほうでも、王琰は清廉潔白と認められた人物でなかったことが見えました。せっかく功を立てたのに、これでは――。

コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます

タイトルとURLをコピーしました