胡綜(こそう) ※あざなは偉則(いそく)

【姓名】 胡綜(こそう) 【あざな】 偉則(いそく)

【原籍】 汝南郡(じょなんぐん)固始県(こしけん)

【生没】 183~243年(61歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・胡綜伝』あり。

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文才を発揮し、数多くの公文書の起草を任される

父母ともに不詳。息子の胡沖(こちゅう)は跡継ぎ。

胡綜は幼いころに父を亡くし、母とともに江東(こうとう)へ移住した。

196年、孫策(そんさく)が会稽太守(かいけいたいしゅ)を兼ねると、胡綜は14歳ながら門下循行(もんかじゅんこう)に任ぜられ、孫権(そんけん)と一緒に呉郡(ごぐん)で学ぶ。

200年、孫策の急死を受けて跡を継いだ孫権が討虜将軍(とうりょしょうぐん)になると、胡綜は金曹従事(きんそうじゅうじ)に任ぜられた。

そして孫権に付き従い、劉表(りゅうひょう)配下の黄祖(こうそ)討伐に参加し、功により鄂県長(がくけんちょう)に任ぜられた。

209年、孫権が車騎将軍(しゃきしょうぐん)となり、本拠地を京(けい。京城〈けいじょう〉)に定めると、胡綜は召し還されて書部(しょぶ)の官に就き、是儀(しぎ)や徐詳(じょしょう)とともに軍事や国政の機密事項を処理した。

221年、蜀(しょく)の劉備(りゅうび)が大軍をひきいて白帝(はくてい)まで出てきた際、胡綜は孫権の命を受けて徴兵にあたり、新たに6千人の兵士を確保する。

孫権は、解煩(かいはん)と名付けた左右両部からなる部隊を新設し、胡綜を右部督(ゆうぶとく)に、徐詳を左部督(さぶとく)に、それぞれ起用した。

この年、孫権が魏(ぎ)の曹丕(そうひ)から呉王に封ぜられると、胡綜は是儀や徐詳らとともに亭侯(ていこう)に封ぜられた。

以前、戯口(ぎこう)の守備にあたっていた部将の晋宗(しんそう)が魏に寝返り、蘄春太守(きしゅんたいしゅ)に任ぜられた。

223年、胡綜は孫権の命を受け、将軍の賀斉(がせい)らとともに少人数の部隊をもって晋宗を急襲し、見事に生け捕る。この功により建武中郎将(けんぶちゅうろうしょう)の官位を加えられた。

229年4月、孫権が帝位に即いて「黄龍(こうりょう)」と改元し、本陣に置く黄龍の牙旗(がき。皇帝や将軍の旗)を作らせる。このとき胡綜は命を受けて、牙旗を題材にした賦(ふ)を献じた。

同年6月、蜀の劉禅(りゅうぜん)は孫権の即位を聞くと、衛尉(えいい)の陳震(ちんしん)を遣わし、両国の友好関係をより確かなものにしようとした。

この折に、呉と蜀とで諸州を分割統治する盟約が結ばれたが、そのための文章は胡綜が作ったという。

同年9月、孫権が武昌(ぶしょう)から建業(けんぎょう)へ遷都すると、胡綜は徐詳ともども侍中(じちゅう)に任ぜられ、胡綜が右領軍(ゆうりょうぐん)を、徐詳が左領軍(さりょうぐん)を、それぞれ兼ねた。また、ふたりとも郷侯(きょうこう)に爵位が進んだ。

このころ魏の降人の中に、都督河北諸軍事(ととくかほくしょぐんじ)・振威将軍(しんいしょうぐん)の呉質(ごしつ)が国内で疑いの目を向けられている、と話す者がいた。

そこで胡綜は3編の文章を偽作し、呉質が呉に降伏したがっているように見せかけた。

しかし、これらの文章が魏に広まったとき、すでに呉質は侍中として中央へ戻っていたという。

呉質が侍中に任ぜられたのは230年のこと。呉質の個別記事を参照。

230年、魏の隠蕃(いんはん)が呉へ偽降する。隠蕃は上書して目通りを願い、孫権の御前で立派な意見を述べた。

だが、胡綜は孫権から感想を求められると、こう応えた。

「隠蕃の上書は、大げさな点で東方朔(とうぼうさく)に似ており、巧妙な詭弁(きべん)という点で禰衡(でいこう)に似ておりますが、才能ではこのふたりに及びません」

東方朔は前漢(ぜんかん)の武帝(ぶてい。在位、前140~前87年)に仕えた。『漢書(かんじょ)』に伝がある。

禰衡は孔融(こうゆう)に激賞された皮肉屋。『三国志演義』(第23回)や吉川『三国志』(第90話)などにも登場している。

結局、隠蕃は廷尉監(ていいかん)に任ぜられ、呉の重臣とも付き合うようになったが、後に謀反を企てたことが露見して誅殺された。

その後、胡綜は偏将軍(へんしょうぐん)に任ぜられて左執法(さしっぽう)を兼ね、訴訟の処理にあたる。

232年、輔呉将軍(ほごしょうぐん)の張昭(ちょうしょう)が遼東(りょうとう)への出兵を強く諫め、孫権との関係が険悪になったとき、胡綜はふたりの間を取り持った。

243年、胡綜は61歳で死去し、息子の胡沖が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、胡綜は酒好きで、酒を飲んでは大声を上げたり杯を振り回したりし、左右の者を殴ることまであったそうです。それでも孫権は彼の才を愛していたため、あえてとがめなかったのだと。

また、孫権が兄の跡を継いでからというもの、布告文・任命書・外交文書などのほとんどは胡綜が起草したものだったとありました。

酒癖の悪さは問題でしょうが、持てる文才を十分に発揮し、孫権の信任に応えた重臣のひとりですね。

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