【姓名】 楽詳(がくしょう) 【あざな】 文載(ぶんさい)
【原籍】 河東郡(かとうぐん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。
魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』で儒宗とたたえられたひとり、杜畿(とき)の恩義を忘れず
父母ともに不詳。
楽詳は若いころから学問を好んだ。
建安(けんあん)年間(196~220年)初め、公車司馬令(こうしゃしばれい)の謝該(しゃがい)が『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』に詳しいと聞くと、楽詳は南陽(なんよう)から徒歩で許(きょ)へ赴き、謝該に疑問や難解な要点について尋ね、のち『左氏楽氏問七十二事(さしがくしもんななじゅうにじ)』を著した。
やがて楽詳は謝該のもとを辞去し、郷里へ帰る。
そのころ杜畿が河東太守(かとうたいしゅ)を務めており、やはり学問好きだった。そこで楽詳を文学祭酒(ぶんがくさいしゅ)に任じて若者の教育にあたらせたところ、河東では学問が非常に盛んになった。
曹丕(そうひ)の黄初(こうしょ)年間(220~226年)になると、楽詳は中央へ召されて博士(はくし)に任ぜられる。
ちょうど太学(たいがく)が再整備されたばかりで、10余人の博士がいたものの、彼らの学問は偏りがあるか、狭いことが多かった。専門分野の理解も不十分だったため学生に教えられず、ただ官に就いているだけというありさまだった。
しかし、楽詳だけは五経すべてを教授することができ、その丁寧な指導ぶりは寝食を忘れるほどだったという。こうして彼の名はひとり遠近まで聞こえ渡った。
また、楽詳は星の運行にも詳しかったので、別に詔(みことのり)を受け、太史(たいし。官名)とともに音律や暦を制定した。
その後、曹叡(そうえい)の太和(たいわ)年間(227~233年)には騎都尉(きとい)に転ずる。
ところが楽詳は実務能力に乏しく、三帝(曹丕・曹叡・曹芳〈そうほう〉)の時代を経ても郡守(ぐんしゅ。太守)になれなかった。
曹芳の正始(せいし)年間(240~249年)になり老齢のため退官。それでも河東の一族は楽詳を頼りにし、門弟が数千人もいた。
257年、楽詳は90余歳ながら上書し、恩人の杜畿の遺業を訴える。
これを受けて曹髦(そうぼう)は詔を下し、杜恕(とじょ)の息子の杜預(とよ。杜畿の孫)を豊楽亭侯(ほうらくていこう)に封じて100戸の封邑(ほうゆう)を与えた。
その後の楽詳については記事がない。
★杜預については、慣例として「どよ」と読まれるとのこと。
★杜畿は224年、曹丕の御座船(皇帝が乗る船)を陶河(とうが)で試運転中、強風による転覆事故のため溺死した。
★杜恕は249年、幽州刺史(ゆうしゅうしし)を務めていた間の不適切な処置を弾劾され、平民に貶(おと)されたうえ章武郡(しょうぶぐん)へ流された。そして252年に当地で死去している。
管理人「かぶらがわ」より
上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・杜畿伝)に付された「杜恕伝」とその裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢の『魏略』によるものです。
楽詳の生没年はイマイチはっきりしませんけど、「甘露(かんろ)2(257)年に90余歳だった」のなら、生年は160年代の半ばになります。没年のほうも、257年の上書からほどなくして亡くなった、という感じでしょうか。
楽詳を騎都尉に転任させた曹叡の判断は微妙ですよね。現場で教鞭(きょうべん)を執り続けてもらったほうがよかったような――。
なお、『魏略』の中で儒宗として名が挙げられているのは、董遇(とうぐう)・賈洪(かこう)・邯鄲淳(かんたんじゅん)・薛夏(せつか)・隗禧(かいき)・蘇林(そりん)・楽詳の7人です。
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