周羣(しゅうぐん)

【姓名】 周羣(しゅうぐん) 【あざな】 仲直(ちゅうちょく)

【原籍】 巴西郡(はせいぐん)閬中県(ろうちゅうけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第065回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・周羣伝』あり。

天空の異変を察知し将来を予測

父は周舒(しゅうしょ)だが、母は不詳。周巨(しゅうきょ)という息子がいた。

周舒が楊厚(ようこう)の下で図讖(としん。未来の吉凶を記した予言的な書物)について学んでいたため、周羣も若いころから父の教えを受ける。こうして自然現象などから未来の兆候を探ろうとする学問に専心した。

周羣の家は裕福で大勢の奴僕を抱えていたので、庭に小楼を造り、奴僕に交代で天空の異変を観察させる。

天空にわずかな変化でもあれば、周羣は楼に登って自ら観察したが、それは昼夜を問わないものだった。そのためおおよそ未来の兆候につながりそうな現象を見落とすことがなく、彼の予言も多くは的中したという。

やがて周羣は益州牧(えきしゅうぼく。194~214年)の劉璋(りゅうしょう)に召され「師友従事(しゆうじゅうじ)」となる。

214年、劉備(りゅうび)が成都(せいと)で劉璋を降すと、周羣は「儒林校尉(じゅりんこうい)」に転じた。

218年、劉備が漢中(かんちゅう)の支配権を巡って曹操(そうそう)と戦おうとしたとき、周羣に下問がある。

周羣ははこのように答えた。

「その地を得ることはできますが、その民を得ることはできないでしょう。もし一部隊を差し向けられる程度なら必ず不利な状況に陥ります。注意して慎重に対処なさるべきです」

この年、劉備は将軍(しょうぐん)の呉蘭(ごらん)や雷銅(らいどう)らを武都(ぶと)へ送り込んだものの、曹操軍によって全滅する。また、翌219年に漢中の地を手中に収めたが、やはり民を得ることはできなかった。

ことごとく周羣が予言した通りになったので、彼は茂才(もさい)に推挙された。

その後の周羣については記事がないものの、彼の死後(時期は不明)、息子の周巨がよく父の技術を受け継いだという。

管理人「かぶらがわ」より

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く司馬彪(しばひゅう)の『続漢書(しょくかんじょ)』には、周羣が彗星(すいせい)の出現などから予言を的中させた例が付記されていました。

漢(かん)から魏(ぎ)への王朝の交代を始め、荊州牧(けいしゅうぼく)の劉表(りゅうひょう)の死や西方に領土を持つ者(劉璋・張魯〈ちょうろ〉・韓遂〈かんすい〉・宋建〈そうけん〉)の没落などに関するものです。

現代に生きる私は「図讖」を全面的に支持するわけにはいかないですが、かといって単なるこじつけで片づけられるものでもなさそう。

図讖に通じている人は、これを学ぶ過程で情勢判断能力も身に付きやすいため、予言というより将来の動向を予測することに長けていたのではないでしょうか? もちろん、それはそれで立派な才能だと思いますけど……。

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