吉川『三国志』の考察 第208話「剣と戟と楯(けんとほことたて)」

曹操(そうそう)が漢中(かんちゅう)まで進出してくると、劉備(りゅうび)は諸葛亮(しょかつりょう)の進言を容れ、伊籍(いせき)を孫権(そんけん)のもとへ遣わし、荊州(けいしゅう)3郡の返還に応じた。

孫権は併せて伝えられた劉備の要請に応え、自ら軍勢をひきいて魏(ぎ)の皖城(かんじょう)を攻略。だがこれを祝う宴席で、甘寧(かんねい)と凌統(りょうとう。淩統)が余興にかこつけ、互いの意地をぶつけ合う。容易ならぬ事態と察知した呂蒙(りょもう)は――。

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第208話の展開とポイント

(01)漢中

司馬懿(しばい)は中軍の主簿(しゅぼ)を務め、漢中攻略の時も曹操のそばにあった。

この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「(主簿は)将軍府や州郡などに置かれた属吏。文書行政をつかさどる」という。

戦後経営の施政などにはもっぱら参与して、その才能と圭角(けいかく)をぽつぽつ現し始めていた。

ある日、司馬懿は、このまま蜀(しょく)へ入ってしまうよう進言する。さらに劉曄(りゅうよう)も、劉備を討つなら今のうちでしょうと、しきりに勧めた。

これが以前の曹操だったら一議に及ばぬことであろうが、赤壁(せきへき)のころから、すでに彼も老齢に入る兆しが見えていた。

このときも「隴(ろう)を得て、またすぐ何か、蜀を望まん。わが軍の人馬も疲れている。まあ、もう少し休息させる必要もあろう」と、急に動く気色もなかった。

新潮文庫の註解によると「(『隴を得て、またすぐ何か、蜀を望まん』は)人の欲望には限りがないことのたとえ。光武帝(こうぶてい。劉秀〈りゅうしゅう〉)の『既に隴(漢中)を平らげ、復(ま)た蜀を望む』(『後漢書〈ごかんじょ〉』岑彭伝〈しんほうでん〉)という言葉を典拠」とある。

(02)成都(せいと)

魏軍の目覚ましい進出に対し、諸葛亮が劉備に策を説いた。

能弁な士を呉(ご)へ遣わし、先に約した荊州3郡を確実に還す一方、時局の険悪と利害を説き、孫権をして魏の合淝城(がっぴじょう。合肥城)を攻めさせるのだと。

ここでいう荊州3郡は、長沙(ちょうさ)・零陵(れいりょう)・桂陽(けいよう)を指すはず。先の第205話(03)を参照。だが『三国志演義(4)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第67回)では、江夏(こうか)・長沙・桂陽の3郡だとあった。零陵が江夏に入れ替わっている理由はわからず。

劉備が座中を見回すと、ふと伊籍と目が合う。すると伊籍はすぐに立ち、「私が行きましょう」と神妙に言った。伊籍ならばと諸葛亮もうなずき、満座もみな彼に嘱した。

(03)建業(けんぎょう)

伊籍は劉備の書簡を携えて長江(ちょうこう)を下る。途中、荊州(江陵〈こうりょう〉?)に上陸して密かに関羽(かんう)と会い、劉備の内意と諸葛亮の遠謀を語って打ち合わせを済ませた。

呉では諸論まちまちに分かれる。また、使者の伊籍はこう説くのだった。

「呉が合淝をお攻めになれば、曹操は漢中にいたたまれず、急きょ都(許都〈きょと〉)へ引き揚げましょう。そうなれば、我々はただちに漢中を取ります。そして関羽を召し還して漢中に入れ、荊州全土はそっくり呉へ返上申す考えである」

だから、3郡を受け取るのは条件つきのようなものだった。結局、張昭(ちょうしょう)や顧雍(こよう)らの意見もみなそれに傾いたので、ついに孫権も肚(はら)を決める。

孫権は伊籍が持ちかけた交渉をすべて容認し、再び魯粛(ろしゅく)を荊州接収のため現地へ派遣した。

荊州の領土貸借問題は、両国の国交上、多年にわたる癌(がん)であったが、ここにようやく一部的な解決をみる。3郡の領土接収が無事に済むと、呉と蜀は初めて修交的な関係に入った。

呉は大軍を出して陸口(りくこう)付近に屯(たむろ)させ、「まず魏の皖城を取り、続いて合淝を攻めん」と、だいたいの作戦方針をそう決めた。

(04)皖城

だが、皖城の攻略は決して楽でなかった。呉は呂蒙と甘寧を先手とし、蔣欽(しょうきん)と潘璋(はんしょう)を後陣に、中軍には孫権が自らあって、周泰(しゅうたい)・陳武(ちんぶ)・徐盛(じょせい)・董襲(とうしゅう)などの雄将や知能を網羅して臨んだ。

井波『三国志演義(4)』(第67回)では、このとき程普(ていふ)・黄蓋(こうがい)・韓当(かんとう)は各地の重要拠点で守備にあたっており、3人とも従軍しなかったとある。

また井波『三国志演義(4)』(第67回)では、皖城へ向かう前に和州(わしゅう)を攻略したとある。だが、吉川『三国志』ではこのことに触れていない。

『三国志演義大事典』(沈伯俊〈しんはくしゅん〉、譚良嘯〈たんりょうしょう〉著 立間祥介〈たつま・しょうすけ〉、岡崎由美〈おかざき・ゆみ〉、土屋文子〈つちや・ふみこ〉訳 潮出版社)によると、「和州は後漢では揚州(ようしゅう。楊州)九江郡(きゅうこうぐん)に属す」という。また「和州は実際には南北朝(なんぼくちょう)時代の北斉(ほくせい)の時に置かれたもので、後漢時代の名称は歴陽県(れきようけん)だった」ともいう。

それにしても、皖城ひとつを陥すために払った犠牲はかなりのものであった。

孫権は占領の日、盛んな宴を開いて士気を鼓舞した。ここへ余杭(よこう)から遅れ馳(ば)せに凌統(淩統)が着き、中途から宴に加わる。

凌統が到着の遅れを悔しがっていると、上座のほうから慰め顔に甘寧が言った。

「いやいや、まだ先には合淝城がある。合淝を攻めるときは、それがしのごとく一番乗りをしたまえ」

甘寧は今度の皖城陥落の際、一番乗りをしていた。

そのため今日の祝賀の席で孫権から錦の戦袍(ひたたれ)を拝領したので、座中第一の面目を施し、最も酔い輝いていたのである。

井波『三国志演義(4)』(第67回)では、いくらか皖城攻略の様子が描かれていたが、吉川『三国志』では省かれている。なので曹操配下の廬江太守(ろこうたいしゅ)の朱光(しゅこう)が、このときの戦いで殺されたことにも言及がない。

凌統は鼻先で笑う。先ほどから上機嫌な甘寧の様子は、誰の目にも武功自慢に見えた。のみならず凌統は、彼と眸(ひとみ)を見合わせたとたんに、亡父を思い出していた。むかし甘寧に討たれて死んだ父のことが、ふと胸を掠(かす)めた。

凌統の父の凌操(りょうそう。淩操)は、かつて黄祖(こうそ)の麾下(きか)にいた甘寧によって射殺された。先の第135話(02)を参照。

甘寧は「凌統。何を笑うか!」と色を変える。いや、凌統が無意識に手を掛けた剣の柄を、とがめるようににらみつけた。

凌統はハッとする。まったく時も場所柄も忘れ、剣に掛けていた手に気づいたからだった。

「あいや。私にはまだ武勲がないので、せめて座興に剣(つるぎ)の舞でも舞い、諸兄の労をお慰め申さんかと存じまして――」

言いながら凌統はすぐに立ち、剣舞を始める。甘寧もさてはと、後ろの戟(げき)を執るやいな言う。

「いや、おもしろい。きみが剣をもって舞うなら、それがしは戟をもって興を添えん」

これを大事と見た呂蒙が、盾を持ってふたりの間に飛び込む。

「やあ、ちとおもしろすぎる。まるで炎と炎のようだ。俺が水を差してやろう」

そして、巧みに戟の舞と剣の舞をあしらいつつ、舞い巡り舞い巡り、ようやく事なくその場を収めた。

初めは何げなく見えていたが、途中から孫権も気づき、酔いも醒(さ)めんばかりな顔をしていた。

しかし、呂蒙の機転にふたりとも血を見ずに座へ戻ったので、ホッとしながらこう言って差し招く。

「さてさて鮮やかに舞ったな。ふたりとも優雅なものだ。杯を与える。そろってわが前へ来い」

孫権は両手の杯を、同時にふたりの手に授けて諭した。

「今や呉は初めて、魏の敵地を踏んだところだ。呉の興亡を担うている御身(あなた)らには、毛頭私心などあるまいと思うが、私の旧怨は互いに忘れてくれよ。いいか、ゆめ思うな」

管理人「かぶらがわ」より

劉備の要請に応じて大軍を動かすことで、ようやく荊州3郡を手にした孫権。

ただ、甘寧に対する凌統の恨みは根深いもの。当時は同族が敵味方に分かれて戦うケースも多かったと思いますが、凌統の場合は状況がより複雑ですよね……。

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