吉川『三国志』の考察 第271話「蛮娘の踊り(ばんじょうのおどり)」

万安渓(ばんあんけい)の孟節(もうせつ)のおかげで、泉の毒から回復した蜀軍(しょくぐん)。目指す禿龍洞(とくりょうどう)に近づくが、朶思大王(だしだいおう)も孟獲(もうかく)兄弟も、この地まで敵軍がやってきた事実を受け入れられない。

そこへ銀冶洞(ぎんやどう)の楊鋒(ようほう)一族が、3万余の援軍をひきいて合流。みな喜んで酒宴を催すも、楊鋒が余興に披露した蛮娘たちの踊りの最中に……。

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第271話の展開とポイント

(01)万安渓

海を行くような青さと暗さ、また果てない深林と沢道をたどるうちに忽然(こつぜん)、天空から虹のごとき日がこぼれた。広やかな山懐の谷である。諸葛亮(しょかつりょう)は「おお、万安渓はここに違いない」と馬を下りて、隠士の家を探させた。

(02)万安渓 万安隠者(ばんあんいんじゃ。孟節)の山荘

やがて山荘に至ると、長松大柏(たいはく)は森々と屋を覆い、南国の茂竹や椰子樹(ヤシじゅ)、紅紫の奇花などを籬落(りらく。垣根)として、異香を風に翻し、思わず恍惚(こうこつ)とたたずみ見とれていた。

一頭の犬が吠え立てると、山荘の内から、ちょうど真っ黒な誕生仏(釈迦〈しゃか〉が生まれたときの姿を表した仏像)そっくりの裸の童子が飛び出してきて、犬を追い叱りながら言う。

「小父(おじ)さんは蜀の丞相(じょうしょう)だろう。こちらへお入りなさい」

すると一堂の竹扉を開いて現れた碧眼(へきがん)黄髪の老人が、慇懃(いんぎん。丁寧な様子)、堂中へ迎えて挨拶を施した。

老人は朱絹の衣をまとい、竹冠をかぶり、肥えたる耳に金環を垂れ、さながら達磨禅師(だるまぜんじ)のような風貌をしている。礼が終わって座も定まり、諸葛亮の来意を聞くと、隠士は呵々(かか)と笑って言った。

「この老夫は山野の世捨て人。何も世の中の人へ尽くすことはできないと思うていたところへ、丞相が駕(が)をまげたまわんなど、望外の喜び。いや、恐れ多い次第です」

「どうぞ四泉の毒に倒れた傷病兵を、すぐこれへお運びください。お安いことです。老夫の力でお救いはできないが、天然自然の薬泉が近くにありますから」

諸葛亮は大いに喜び、扈従(こじゅう)の者に命じ、王平(おうへい)や関索(かんさく)をして、病人や負傷者を続々と運ばせた。

(03)万安渓 薬泉

童子は隠士と力を合わせ、皆を万安渓の一泉へ案内した。この薬泉に沐浴(ゆあみ)して、薤葉(カイヨウ。大薤〈オオニラの葉〉)をかみ、芸香(ウンコウ)の根をすする。

原文でも「芸香」となっていたが、「芸」と「ウン」は別字。フォントが出なかったものの、冠の形が違っている。

あるいは、柏子(はくし)の茶や松花の菜などを食べると、重き者も血色を呼び返し、軽き者は即座に爽快となり、歓語は谷に満ちた。

また隠士は、こう注意した。

「この洞界地方には、毒蛇や悪蝎(あっかつ。質〈たち〉の悪い蝎〈サソリ〉)が多いのでお気をつけなさい」

「行軍で何より悩むものは水ですが、およそ桃の葉が落ちて渓水(たにみず)に入り、久しく腐るものは必ず激毒(劇毒)を持っていますから、馬にも飲ませてはいけません」

「行く先々、面倒でも地を掘り、地下水のみを求めて飲むようにすれば安全でしょう」

『三国志演義(6)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第89回)では、万安隠者(孟節)が諸葛亮に、「この辺りの洞には毒蛇や蠍(サソリ)が多く、柳の花が舞い落ちる渓谷や泉は毒があり、水は飲めません……」と話していた。

原文に「激毒」という用語があったが、ここは「劇毒」とするのが適切だろう。

諸葛亮は拝謝し、隠士の姓名を尋ねる。

隠士はニタリと笑い、驚いてはいけませんよ、と断った後、自分は孟獲の兄にあたる者だと明かす。さらにこうも話した。

「我々の父母には子が3人いました。私が長男で、次が孟獲、その次が孟優(もうゆう)です。父母は早くに亡くなりましたが、ふたりの弟は物欲が盛んで、権栄を好み、強悪を喜び、あえて王化に従わず、ほとんど手も付けられない無道を続けてきました」

「諫めても諫めても直る様子は見えません。そこで私は、ふたりの弟と別れて王城を捨て、20余年前にこの谷へ隠れ、以来世間に顔も出していません。そういうお恥ずかしい人間です」

諸葛亮は感嘆して言った。

「昔にも柳下恵(りゅうかけい)と盗跖(とうせき)のような兄弟があったが、今の世にも、あなたのようなお方がいたか。天子(てんし。劉禅〈りゅうぜん〉)に奏し、あなたを南蛮王(なんばんおう)にしましょう」

この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「柳下恵は孔子(こうし)の友人であったが、弟の盗跖は大泥棒であった。『荘子(そうじ)』盗跖篇に基づく」という。

「いやいやご免です。富貴を望むくらいなら、このような谷住まいはしません」

そう言って孟節は手を振る。彼の名は孟節というのであった。

(04)禿龍洞

かくて蜀の三軍は百難を克服し、ようやく目指す洞界に近づいたが、なおしばしば困難したのは飲料水を得ることだった。時には20余丈の岩盤を掘り下げたり、あるいは一水を得るため、千仞(せんじん)の渓谷へ水くみの決死隊を募ってくませたこともある。

井波『三国志演義(6)』(第89回)では、地面を20丈余り掘ったが一滴の水も得られず、諸葛亮が夜中に香を焚き、天に祈ったとあり……。明け方になってみると、どの井戸にも満々と水がたたえられていたともある。だが、吉川『三国志』ではこの話を採り上げていない。

途中、1千個の水桶(みずおけ)を作らせ、雨が降ればこれに蓄え、牛馬の背に乗せて大切に持って進んだ。そのほかの衣食も遠征の窮乏を加え、困難は言語に絶するものがあった。

しかし孜々(しし)営々、この大遠征軍は、ついに禿龍洞の地へ入る。そして洞界の一方に陣し、しばし兵馬によき水を飲ませ、野営の幕舎を連ねて動かなかった。

と見せつつ、実は関索・王平・魏延(ぎえん)などの部隊はすでに正面の敵地をおき、その隣接地方へ迂回(うかい)進撃している。

これがどういう目的を持つ作戦であるか、諸葛亮のほか知ることはできなかったが、すでにその方面の功を上げ、何組もの酋長(しゅうちょう)や部族の者が生け捕られてきた。

(05)禿龍洞 朶思大王の本拠

一方で禿龍洞の首部では、諸葛亮の大軍が洞界まで来たと知って、大動揺を起こす。初めのうちは、朶思大王も孟獲兄弟も信じられない顔つきだった。

だが、頻々たる部下からの知らせに、山へ登って遥か彼方(かなた)を眺めると、蜀軍の屯営する幕舎が、数十里にわたって翩翻(へんぽん)と旌旗(せいき)を連ねている。

朶思大王は顔色を変え、昏絶(こんぜつ)せんばかり驚いていた。それでも覚悟の臍(ほぞ)を決め、孟獲兄弟と同生同死の血をすすり合い、蛮軍数万の土兵にまでこれを宣する。

この様子に孟獲も大いに励まされ、闘志を磨く。そこで牛を屠(ほふ)って馬を殺し、軍中に大酒を振る舞い、士卒の蛮性を鼓舞激励していた。

ここへ快報が届く。隣洞の銀冶洞の酋長である楊鋒一族が、3万余人を連れて味方しに来たというのである。朶思大王は額を叩き、喜び躍った。

さっそく陣中に迎え入れると、楊鋒は5人の息子と一家眷族(けんぞく)をみな連れ、華々しく乗り込んで言う。

「やあ大王。貴洞の難は、わが洞界も同じこと。及ばずながらご加勢に参った。大言のようだが、俺には5人の息子があって、それぞれ武勇を鍛えさせている。もう心配するには及ばん」

そして自慢そうに5人の息子たちを引き合わせる。見ればいずれも蛮勇無双な骨柄で、豹額虎体(ひょうがくこたい)、猛気凜々(りんりん)たる者ばかりである。

朶思大王も孟獲も有頂天に喜び、いよいよ大量に酒瓶(さかがめ)を開き、肉を盤に盛り、血を杯に注いで夜に入るまで歓呼していた。

ふと楊鋒が、朶思大王を見て諮った。

「わしの連れてきた眷族の中には、年頃の娘も大勢いる。ひとつ余興として彼女(あれ)たちに踊らせ、その後で酌をさせようではないか」

朶思大王は手を打ち、孟獲と孟優を振り向く。ふたりとも異議はない。

万雷の拍手の中、楊鋒は口笛を吹いて彼方を差し招く。前もって余興の効果を考えておいたものだろう。声に応じて一列の美人が身ぶりをそろえ、酒宴の中へ歩いてきた。

蛮娘の皮膚はみな鳶色(とびいろ)をして、黒檀(コクタン)のように光っている。髪をさばいて花を挿し、腰には鳥の羽根や動物の牙を飾っていた。

そして短い蛮刀を吊り、ずらりと輪になったり、輪を崩したり、尻を振って跳ね踊る。満座もともに浮かれだしそうな騒ぎ。そのうちに蛮娘連は手をつなぎ、踊りの輪の中へ孟獲と孟優を囲み入れ、蛮歌をうたいだす。

かと思うと突然、躍り上がった楊鋒が杯を宙に投げ、「すわ、手を下せ!」と大喝した。とたんに蛮娘はみな剣を抜いて、白刃の輪を縮める。

孟獲も孟優もワッと叫び、蛮娘連を剣もろとも蹴飛ばし、輪の外へ躍り出た。だがその刹那、楊鋒の5人の息子たちや一族がドッと覆いかぶさり、縄を掛けてしまう。

ここで孟獲五擒(ごきん)。

朶思大王も逃げんとするところ、楊鋒に足をすくわれて、これも難なく、彼の手下に搦(から)め捕られた。

仰天したのは、へべれけに酔い、美人の踊りに気を取られていた蛮将たちだが、これも敵対するまでにはいかない。楊鋒の手下に囲まれて、手も足も出せなかった。

合図の狼煙(のろし)はその前にここから上がっていたものとみえ、喨々(りょうりょう)たる螺声(らせい)や金鼓の音は、すでに諸葛亮の三軍が近づきつつあることを告げている。

それを知るや禿龍洞の大兵も先を争い、山野の闇へ逃げ散ってしまった。孟獲は楊鋒に、ものすごい血相と大声を向ける。

「やいっ楊鋒。てめえも蛮国の洞主じゃねえか。仲間を罠に陥して孔明(こうめい。諸葛亮のあざな)に渡す気かっ!」

楊鋒は笑って言った。

「実は俺も捕らえられ、孔明の前に引かれたのだ。そこで恩に感じたので、それに報いるため、このひと役を買って出たのさ。貴様も降参してしまえよ」

孟獲が暴れ狂っている間に、はや諸葛亮が幕僚を従えて着く。驚くべし、楊鋒の5人の息子だと言っていたのも、みな蜀軍の武士たちだった。蛮装を解くやいな、それぞれ甲鎧(こうがい)を改め、諸葛亮を迎える列の端に加わっている。

井波『三国志演義(6)』(第89回)では、蜀軍の武士が楊鋒の5人の息子たちに成り済ました、という設定は見られなかった。

諸葛亮は、これで五度目だとして、今度は心服するほかあるまいと言った。

しかし孟獲は、捨て鉢ぎみになって言い返す。

「心服だと。笑わすな。俺はいつ汝(なんじ)に縛られたか。俺の縄目は仲間の裏切り者が掛けたのだ」

さらに諸葛亮が言った。

「ひとりの匹夫を屈するため、総帥たる者が手を下すわけはない。わしの指にでも触れたければ、汝も王化の人になれ」

これを聞いた孟獲が言った。

「王化王化と言うが、俺も南蛮国王だぞ。俺の都は先祖以来、銀坑山(ぎんこうざん)にあって、三江(さんこう)の要害と重関を巡らせている」

井波『三国志演義(6)』(第90回)によると、瀘水(ろすい)・甘南水(かんなんすい)・西城水(せいじょうすい)の3本の川が合流しているため、三江と称するという。

「そこで俺を破ったら――。なるほどてめえも相当偉いと言ってよかろう。だが何だ、これしきの勝ちを取ったからといって、総帥面も片腹痛い!」

孟獲の悪口と反抗心は相変わらず熾烈(しれつ)だった。

管理人「かぶらがわ」より

これで孟獲五擒(四放)。万安隠者こと孟節の助力のおかげで、四泉の毒から回復した蜀兵。南蛮の知恵者という朶思大王でしたが、今回は戦いらしい戦いになりませんでした。

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