吉川『三国志』の考察 第127話「徐庶とその母(じょしょとそのはは)」

許都(きょと)へ逃げ帰った曹仁(そうじん)と李典(りてん)から、劉備(りゅうび)に大敗した経緯を聴き取る曹操(そうそう)。

新たに劉備の軍師になったという単福(たんふく)こと徐庶(じょしょ)の影響が大きいと判断し、程昱(ていいく)の献策を容れて徐庶の老母を迎えに行かせる。

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第127話の展開とポイント

(01)許都 丞相府(じょうしょうふ)

河北(かほく)の広大を併せて遼東(りょうとう)や遼西(りょうせい)からも貢ぎせられ、許都は年々の殷賑(いんしん)に拍車をかけ、名実ともに中央の府たる偉観と規模の大を具備してきた。

やがて曹仁と李典が地に拝伏し、劉備との数度の合戦に打ち負けた様子をつぶさに報告する。

だが、聞き終えた曹操は一笑の下に、「勝敗は兵家の常だ」と言って責任を問わず、とがめもしなかった。

それでも、戦巧者の曹仁の画策をことごとく撃砕し、鮮やかに裏をかいた敵の手並みだけが腑(ふ)に落ちない。

このことを尋ねると曹仁は、今回の戦には単福と申す者が新たに劉備の軍師として参加していたようだと答える。

曹操が、単福を知る者はいるかと皆に問うと、ひとり程昱が笑いだす。程昱は、単福が徐庶の変名であることを明かし、その人柄や学識についても聞き知っているところを話した。

ここで程昱は(同じ)潁上(えいじょう)の産という縁故で、単福(徐庶)のことをよく知っていると言っていた。徐庶は潁川郡(えいせんぐん)の出身だが、程昱は東郡(とうぐん)東阿県(とうあけん)の出身である。確かに両郡はそれほど離れていないが、(同じ)潁上の産とまで言えない気がする。

ちなみに『三国志演義(3)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第36回)でも、程昱が単福の素性を明かしていたが、「同じ潁上の産という縁故」だとは言っていなかった。

また『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・諸葛亮伝〈しょかつりょうでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によると、「徐庶は初めの名を徐福(じょふく)と言った」という。

加えて『正史 三国志5』(井波律子訳 ちくま学芸文庫)の訳者注によると、「原文『本単家子』。単家は寒門と同じく権勢のない家柄の意味だが、明代(みんだい)の小説『三国演義』では勘違いして『単という家の子』と読み、単を姓としている」という。

曹操は徐庶が劉備に召し抱えられたことを惜しがるが、程昱は、その嘆声はまだ早いと言う。そして、徐庶は幼少のころに父を失い、今はひとり老母がいるだけだと話す。

その老母は(徐庶の)弟の徐康(じょこう)の家にいたが、近ごろ彼も夭折(ようせつ)したので、朝夕親しく孝養する者がいないのだと。

そういう事情があるので、人を遣って懇ろに老母を呼び寄せ、丞相(曹操)から親しく諭され、老母をして迎えるようになされば、孝子の徐庶は夜を日に継いで都へ駆けてくるだろうとも。

そこで曹操が書簡を遣わすと、日を経て徐庶の母が都へ迎え取られてくる。使者の丁重さや府門での案内など、下へも置かない扱いだった。

やがて曹操が群臣を従えて現れ、わが母を拝するように徐庶の母をねぎらう。そして、息子の徐庶が単福と変名し、新野(しんや)の劉備に仕えていることに触れ、手紙を書いてこちらへ招くよう勧める。

すると、老母は初めて口を開いた。

自分はご覧の通りの田舎者で世のことは何もわきまえないが、劉玄徳(りゅうげんとく。玄徳は劉備のあざな)というお方のうわさは、木を切る山樵(やまがつ)でも田に牛を追う爺(じい)でもよく口にしていると。

曹操が何と言うているかと聞き返すと、さらに老母が答える。

「劉皇叔(りゅうこうしゅく。天子〈てんし〉の叔父にあたる劉備)こそ、民のために生まれ出てくださった当世の英雄じゃ、誠の仁君じゃ」と言っているのだと。

曹操は、劉備は涿郡(たくぐん)に生まれた匹夫だとし、地方民を騙(だま)しては、彼らを苦しめて歩く流賊の類いにすぎないと言う。

なおも老母は劉備をたたえるが、曹操は徐庶あてに手紙を書くよう再び迫る。

老母は頑として拒み、いかに草家の媼(おうな)とて、順逆の道ぐらいは知っていると言う。漢(かん)の逆臣とはすなわち丞相さま、あなた自身ではないかと。そして、目の前に押しつけられていた筆を庭へ投げ捨てる。

激怒した曹操が、斬れと呶号(どごう)して突っ立つと、とたんに老母の手は硯(すずり)をつかみ、彼に向かって投げつけた。

重ねての呶号に武士がドッと寄り、老母の両手を高く拉(らっ)する。だが老母は自若として騒がず、いよいよ曹操は業を煮やし、自ら剣を握った。

程昱は間に立ってなだめ、老母が丞相を罵ったのは、自分から死を求めている証拠だと言う。彼女を大切に養っておけば、徐庶も思うままに敵対できないとも。

曹操は任せることにし、程昱は徐庶の母を屋敷へ連れ帰る。

(02)許都 程昱邸

程昱は実の母に仕えるように朝夕の世話をした。徐庶の母は贅美(ぜいび)を嫌い、家族にも遠慮がちに見えるので、別に近くの閑静な一屋に移して安らかに住まわせる。

程昱が折々に珍しい食べ物や衣服などを届けさせるので、老母も親切にほだされ、たびたび礼状などを返してきた。

程昱は手紙を丹念に保管し、筆癖を手習いする。その後、密かに曹操と示し合わせ、ついに巧妙な偽手紙を作った。

(03)新野 徐庶邸

ある日の夕べ、母の使いだという男が徐庶を訪ねてくる。使いの男は、一通の手紙を渡すとすぐに立ち去ってしまう。

徐庶が自室で開いてみると、それは紛れもなく母の筆で、曹操の命で許都へ差し立てられたとあり、一日も早くそばに来てほしいと願うものだった。ここまで読むと徐庶は潸然(さんぜん)と流涕(りゅうてい)し、燭(しょく)も滅すばかりにひとり泣いた。

管理人「かぶらがわ」より

母の自筆を装った偽手紙で、徐庶を劉備から切り離そうとする曹操。この計はとても褒められたものではありませんが、それだけに効果的でもあるのですよね。

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吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。

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