劉貞(りゅうてい)

【姓名】 劉貞(りゅうてい) 【あざな】 ?

【原籍】 ?

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第077話で初登場。
【演義】 第001回で初登場。
【正史】 登場人物。

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劉勝(りゅうしょう)の息子、陸成侯(りくせいこう)

父は劉勝だが、母は不詳。

劉貞は、前127年に陸成侯に封ぜられたが、前112年に侯位を失った。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『正史 三国志5』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま学芸文庫)の訳者注を参考にしたものです。

別に参考にした『漢書2』(小竹武夫〈おだけ・たけお〉訳 ちくま学芸文庫)では、「王子侯表(おうじこうひょう)」に省略された部分があったため、劉貞が何年に侯に封ぜられたのかまではわかりませんでした。

また『漢書2』には、陸成侯ではなく陸城侯(りくじょうこう)とあったのですが、井波先生が注釈されていたように、『漢書』(地理志〈ちりし〉)には、中山国(ちゅうざんこく)に陸成県がありました。

『三国志』(蜀書・先主伝)には、「劉勝の子の劉貞は、元狩(げんしゅ)6(前117)年に涿郡(たくぐん)の陸城亭侯(りくじょうていこう)に封ぜられたが、酎祭(ちゅうさい)の献上金不足のかどで侯位を失い、そのままこの地に住むようになった」とあります。

『漢書』(王子侯表)の記事から、ここにある元狩6年は元朔(げんさく)2(前127)年の誤りだろう、というのは同じく井波先生の指摘。

加えて涿郡は中山国の、陸城亭侯は(前漢〈ぜんかん〉時代には亭侯〈ていこう〉が存在しないため)陸成侯の、それぞれ誤りだろうとも。

なお『三国志演義』では、涿鹿亭侯(たくろくていこう)とありました。こうなるともう訳がわからない。爵位ひとつにしてもなかなか難しいものですね。

正史『三国志』で劉備(りゅうび)の遠祖として名が出てくるのは、この劉貞と父の劉勝だけです。『三国志演義』では、ほかにも大勢出てきますけど……。

劉勝には120余人もの子がいたということですから、劉貞は大変な数の兄弟がいたことになります。その末裔(まつえい)となると、いったいどれほどの数がいたことやら――。

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