王氏(おうし)G ※蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の劉禅(りゅうぜん)の妻、王貴人(おうきじん)

【姓名】 王氏(おうし) ※名とあざなは不詳

【原籍】 ?

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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蜀(しょく)の劉禅(りゅうぜん)の側室、王貴人(おうきじん)

父母ともに不詳。劉禅との間に劉璿(りゅうせん)を儲けた。

また『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・劉璿伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く孫盛(そんせい)の『蜀世譜(しょくせいふ)』によると、劉璿の弟として名が挙げられている6人、劉瑶(りゅうよう)・劉琮(りゅうそう)・劉瓚(りゅうさん)・劉諶(りゅうしん)・劉恂(りゅうじゅん)・劉虔(りゅうけん。劉璩〈りゅうきょ〉)も、王氏が生んだ子の可能性がある。

管理人「かぶらがわ」より

登場箇所が少ないためコメントしにくいです。具体的な事績についての記事がなく、どのような人物だったのかはわかりませんでした。

上で挙げた『三国志』(蜀書・劉璿伝)によると、王氏は、もともと敬哀張皇后(けいあいちょうこうごう)の侍女だったということです。

劉璿は、238年に劉禅の皇太子に立てられた際、15歳だったとあるので、224年生まれだと思われます。

敬哀張皇后が、当時は皇太子だった劉禅の妃(きさき)として宮中に上がったのが、221年のこと。その3年後に劉璿が誕生したわけですか。劉禅もなかなか――。

さらに、224年は劉備(りゅうび)の死(223年4月のこと)の翌年になりますが、何だか気持ちの切り替えが早すぎるような……。まぁ、跡継ぎは大事ですけどね。

ただ劉璿は、264年に魏(ぎ)の鍾会(しょうかい)が成都(せいと)で反乱を起こした際、乱兵に殺害されてしまいます。このとき41歳でした。

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