正史『三国志』における劉虞(りゅうぐ)の扱いについて

こちらの謎は正史『三国志』における劉虞(りゅうぐ)の扱いに関するものです。

このカテゴリーでは「三国志の世界」と付き合う中で、管理人(かぶらがわ)が個人的に疑問を感じたテーマを取り上げます。

ご意見や情報がございましたら、記事の最下部にあるコメント欄またはお問い合わせフォームよりお願いします。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

概要

劉虞は後漢(ごかん)の東海恭王(とうかいきょうおう。光武帝〈こうぶてい〉の息子の劉彊〈りゅうきょう〉)の末裔(まつえい)で、当時は帝族きっての名望家でした。

ところが正史『三国志』には彼の伝が立てられていません。その理由が謎です。

管理人「かぶらがわ」より

陳寿(ちんじゅ)が『三国志』を編纂(へんさん)していたころ、まだ劉虞の史料は残っていたと思われますが、あえて彼の伝を立てなかったのはなぜなのでしょうか?

コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます

タイトルとURLをコピーしました