蜀(しょく)の劉備(りゅうび)の家系について

こちらの謎は蜀(しょく)の劉備(りゅうび)の家系に関するものです。

このカテゴリーでは「三国志の世界」と付き合う中で、管理人(かぶらがわ)が個人的に疑問を感じたテーマを取り上げます。

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概要

『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・先主伝〈せんしゅでん〉)の冒頭に、劉備は漢(かん)の景帝(けいてい)の皇子である中山靖王(ちゅうざんせいおう)劉勝(りゅうしょう)の後裔(こうえい)だと書かれています。

「先主姓劉、諱備、字玄徳、涿郡(たくぐん)涿県(たくけん)人、漢景帝子中山靖王勝(劉勝)之後也」
『三国志』(蜀書・先主伝)

しかしこの劉勝、実は大変な子だくさんでした。

「勝(劉勝)為人楽酒好内、有子百二十餘人」
『漢書(かんじょ)』(景十三王伝〈けいじゅうさんおうでん〉第二十三)

「劉勝の人となり酒を楽しみ、妻妾(さいしょう)にふけり、子が120人余りもいた」という。12人じゃないですよ、120余人です。

劉勝が元鼎(げんてい)4(前113)年に薨(こう)じ、劉備が生まれたのが延熹(えんき)4(161)年。この間に劉勝の子孫はどれだけの数に増えたことでしょう……。

涿郡出身の劉氏なら、劉備でなくてもこの手の話を盛っていたのではないだろうか――。

管理人「かぶらがわ」より

個人的には、劉備が劉勝の後裔だという話は信ぴょう性が薄いと感じます。

ただ劉備の生きざまは、どこか漢の高祖(こうそ。劉邦〈りゅうほう〉)をほうふつとさせるものがあるんですよね……。

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