こちらの謎は魏(ぎ)の曹叡(そうえい)の息子たちに関するものです。
このカテゴリーでは「三国志の世界」と付き合う中で、管理人(かぶらがわ)が個人的に疑問を感じたテーマを取り上げます。
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概要
魏の曹叡の跡を継いだのは養子の曹芳(そうほう)ですが、曹叡には実子の息子が少なくとも3人いたことがうかがえます。
まずは曹冏(そうけい)です。
「[魏の黄初(こうしょ)7(226)年8月]辛巳(しんし。12日)、立皇子冏(曹冏)為清河王(せいかおう)」
「[同年]冬十月、清河王冏(曹冏)薨」
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・明帝紀〈めいていぎ〉)
続いて曹穆(そうぼく)です。
「[魏の太和(たいわ)2(228)年9月]乙酉(いつゆう。29日)、立皇子穆(曹穆)為繁陽王(はんようおう)」
「[魏の太和3(229)年]六月癸卯(きぼう。21日)、繁陽王穆(曹穆)薨」
『三国志』(魏書・明帝紀)
最後に曹殷(そういん)です。
「[魏の太和5(231)年7月]乙酉(15日)、皇子殷(曹殷)生、大赦」
「[魏の太和6(232)年]五月、皇子殷(曹殷)薨、追封謚安平哀王(あんぺいあいおう)」
『三国志』(魏書・明帝紀)
皇子たちに夭折(ようせつ)が続いたことについては、「王朗伝(おうろうでん)」に王朗が上疏した文がありました。
そこには、曹叡が周(しゅう)の文王(ぶんのう)や武王(ぶおう)らに比べて子どもが少ないことを心配し、あまりにも手厚く育てられている皇子たちの扱いを見直すよう促している部分があります。
「朗(王朗)上疏曰、昔周文(文王)十五而有武王、遂享十子之祚、以広諸姫(姫氏〈きし〉)之胤。……且[皇子たちは]少小常苦被褥泰温、泰温則不能便柔膚弱体、是以[病気を]難可防護、而易用[死の]感慨。若常令少小之縕袍、不至於甚厚、即必咸保金石之性、而比寿於南山(なんざん。終南山〈しゅうなんざん〉)矣」
『三国志』(魏書・王朗伝)
管理人「かぶらがわ」より
最初は何か陰謀があったのかと勘ぐりましたが、王朗の上疏を見るとめちゃめちゃ大事に育てられていたらしい。このあたりは曹操(そうそう)や曹丕(そうひ)の時代との違いを感じますね。
とはいえ、なかなか跡継ぎが育たなかったわけですから、思いきってたくましく育てる方向へは変えづらかったでしょう。
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