曹氏(そうし)と袁氏(えんし)の縁組について

こちらの謎は曹氏(そうし)と袁氏(えんし)の縁組に関するものです。

このカテゴリーでは「三国志の世界」と付き合う中で、管理人(かぶらがわ)が個人的に疑問を感じたテーマを取り上げます。

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概要

建安(けんあん)8(203)年に曹操(そうそう)は劉表(りゅうひょう)討伐に向かい、軍勢をひきいて西平(せいへい)まで進みました。

これ以前に曹操が鄴(ぎょう)を離れて許(きょ)へ帰った後、冀州(きしゅう)では袁譚(えんたん)と袁尚(えんしょう)が支配権を巡る争いを繰り広げます。

敗れた袁譚は平原(へいげん)へ逃げますが、袁尚軍に激しく攻め立てられたため、辛毗(しんぴ)を遣わし曹操に降伏を申し入れたうえ、救援を要請しました。

曹操は荀攸(じゅんゆう)の進言を受けて袁譚の要請を容れ、西平から黎陽(れいよう)へ転進。その地で息子の曹子整(そうしせい)のために袁譚の娘を娶(めと)ったのです。

「[建安8年]冬十月、[曹操は]到黎陽、為子整(曹子整)與譚(袁譚)結婚」
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)

ところが、史実ではなく創作のほう、つまり吉川『三国志』や『三国志演義』では、袁譚が曹操の娘を娶ったという話に変わっています。その理由が謎だと感じました。

管理人「かぶらがわ」より

物語としては、袁譚が曹操の娘を娶る形にしたほうがおもしろいという発想なのでしょうか?

ですが、この縁組は袁譚の娘を人質の意味で差し出させたわけなので、曹操が娘を袁譚に嫁がせるという設定はしっくりきません。行き詰まって救援を求めた袁譚より、曹操のほうが圧倒的に立場は上ですしね……。

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