魏(ぎ)の曹叡(そうえい)の生年について

こちらの謎は魏の曹叡の生年に関するものです。

このカテゴリーでは「三国志の世界」と付き合うなかで、管理人(かぶらがわ)が個人的に疑問を感じたテーマを取り上げます。

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概要

「[魏の景初(けいしょ)]三(239)年春正月丁亥(ていがい。1日)、太尉(たいい)宣王(せんおう。司馬懿〈しばい〉)還至河内(かだい)……即日、帝(曹叡)崩于嘉福殿(かふくでん)、時年三十六」
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・明帝紀〈めいていぎ〉)

この記事によれば、曹叡は亡くなったとき36歳だったとあります。

彼の生母とされる甄氏(しんし)は、初め袁紹(えんしょう)の次男の袁熙(えんき)に嫁いでいました。建安(けんあん)9(204)年8月に曹操(そうそう)が鄴(ぎょう)を陥した際に捕らえられ、のちに曹丕(そうひ)が娶り、曹叡と娘の東郷公主(とうきょうこうしゅ)を儲けたそうです。

不思議なことに魏の皇帝(こうてい)である曹叡の生年は本紀に書かれておらず、36歳という享年から逆算すると、建安9(204)年の生まれということになってしまいます。

前述した通り、建安9(204)年8月に鄴が陥落しており、その年は8月を入れても残り5か月。建安9(204)年のうちに曹丕の息子として曹叡が生まれることはありません。

それでは実は袁熙の息子だったのかといえば、そのような訳ありの子が曹家の子として育てられるはずがないので、これもあり得ない――(当たり前)。

裴松之(はいしょうし)はこの件に注釈を付け、「明帝(曹叡)は建安10(205)年に生まれたはずだ」としたうえ、当時の暦の改定の影響を考慮しても(享年は)35歳にしかならず、36歳にはならないと指摘しています。

「[魏の黄初(こうしょ)元(220)年]五月戊寅(ぼいん。3日)、天子(てんし。曹丕)命王追尊皇祖太尉(曹嵩〈そうすう〉)曰太王(たいおう)、夫人丁氏(ていし)曰太王后(たいおうこう)、封王子叡(曹叡)為武徳侯(ぶとくこう)」
『三国志』(魏書・文帝紀〈ぶんていぎ〉)

「年十五、封武徳侯、黄初二(221)年為斉公(せいこう)、三(222)年為平原王(へいげんおう)」
『三国志』(魏書・明帝紀)

もうひとつ引っかかっているのが、曹叡が武徳侯に封ぜられたことに関する、これらふたつの記事。

『三国志』(魏書・文帝紀)には、黄初元(220)年5月に曹叡が武徳侯に取り立てられたという記事があります。そして『三国志』(魏書・明帝紀)には、曹叡は15歳のとき武徳侯に封ぜられたという記事があります。

ここも15歳から逆算すると計算が合いません。黄初元(220)年に15歳だったのなら、生年は建安11(206)年ということになりますよね……。

管理人「かぶらがわ」より

曹叡の生年が建安9(204)年だと考えられない以上、ひとまずこのサイトでは生没年を「205?~239年」、享年を「35歳?」としておきました。

建安11(206)年生まれの景初3(239)年没で、享年34としたほうがいいのかも……。

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